現在、多くの日本人は、物質的に豊かな生活が実現できたにもかかわらず、多くの人は満たされず、不安を抱きながら生きている。それは、人間の生き方や考え方について真剣に考えることなく、また足ることも、人を思いやることも忘れ、ただ利己的に生きているからではないかと思う。いま私たちに必要なことは、「人間は何のために生きるのか」という根本的な問いに真正面から対峙し、人間としてもっともベーシックな哲学、人生観を確立することだと考える。どのような考え方をもって人生を歩もうと自由だが、その考え方によって人生の様相がまったく異なったものになってしまう。つまり「素晴らしい人生を送る」にはそれにふさわしい考え方があり、それはごのようなものなのかということを、私たちは知る必要があると思う。
本書は21の節に区分されて書かれている。まず、「人間として価値ある存在」となるためには、心、考え方、知恵、理性といった精神作用の質が大切だと述べている。著者は人間の根源には宇宙の意志があると考えている。そして、著者は、その上に輪廻転生が行われていて、過去世において経験した意識を人間は引き継いでいるのではないか、それが「もともとあるもの」ではないかと考えている。われわれが死を迎えて、「あなたは現世で何をしましたか?」と尋ねられたら、どんな答えを返すでしょう。それは現世を生きた時につくりあげた人格、人間性、魂、意識体だ。それは肉体が滅びてもなくなることはないという。「あなたは努力され、素晴らしい人格をもつまでに自分を高めましたね」といわれることが人生の価値だという。つまり、人間性を高めるためにわれわれは現世で生きている。
われわれが自由に行動するとき、その指示は脳細胞が出す。その際に優先順位が高いのは、お釈迦様が「煩悩」と呼んだものだ。煩悩とは、肉体を守るために必要な欲望、本能のことである。結局、死ぬ時にどれだけ人格、品性を高めたか、そのことだけが人生の勲章であり、事業で成功する、学問で博士号をとる、組織で高い地位に就くなどということはあまり価値がないことだ。
心を高めようとすれば−−−つまり欲望を抑え、積極的にみんなに善きことをしようとすれば、人間は善になる。そういう意識に目覚め、持戒や利他に努め、自分の心を高めていこうとすると、だんだんと善をなしていくはずである。
人生とは「運命」と「因果応報の法則」が織りなすもので、よい時もあれば、悪い時もある。お釈迦様はそのことを「諸行無常」と説いた。「無常なるがゆえに苦なり」、つまり人生は常ならざるがゆえに苦の連続なのである。
安岡正篤氏は「科学だ、技術だ、繁栄だと言っても、更には政治や経済、あるいは学問だと言っても、長い目で見ると、実に頼りないものであり、はかないものである。それはそのなかに存在する大事な根底を忘れているからである。根底を把握しない技術や学問は人間を不幸にするだけである。それに翻弄されて、いわゆる運命にもてあそばれて終わるだけである。しかし、少しく冷静に観察すれば、その奥にもっと大事な、厳粛な理法というものが、道というものがあるはずである。この理法を学び、道を行なわなければ、我々は何物をも頼むことはできない。」と述べている。
どうすれば、悩まないですむかというと、第1に、悩む暇があったら誰にも負けない努力で働く。第2は、謙虚にして奢らない。第3に毎日反省する。反省するのは悩むことは違う。第4は、足るを知って、生きていることに感謝する。第5に、自分よりも相手によかれという利他の心をもって生きることだ。
「愛」には二つの面がある。一つは他のすべてのものを包みこむ普遍的な愛である。もう一つは自己愛だ。自己愛も必要である。自己愛がなければ自分の命を維持できない。
ご存知のように、著者は1997年9月7日に円福寺で得度している。得度した理由について、
「生まれてからの20年は社会に出るための準備期間。20歳から40年間は社会で働く期間。60歳から80歳までの20年は死出の旅への準備期間。だから60歳で会社を辞め、お坊さんのまね事もしながら、新しい旅立ちのために仏教の勉強をしてみたい」
つまり、著者が80歳で肉体の死を迎えるにあたり、新しい心の旅−−−魂、意識体の旅−−−が始まるから、それまでに準備しておかなければならないと考えたからである。
われわれは忙しさにかこつけ、哲学的な発想なり、「自分は何のために生きているのか」など考えないものだ。しかし、人間には必ず、いつの日か死がやってくる。その時に悔いの残らない人生であった、世のため、人のためにも、自分として精一杯努力して生きたと言えるもの、誇りをもってあの世に旅立ちたいものである。
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