著者の竹内靖雄氏は成蹊大学の教授である。
日本はこの10年「相変わらず」の状態を続けている。老化とともに出てきた「複合慢性病」で長期入院を続けているようなものである。この病気が劇的に全快し、若返って、かつての高度成長時代を再現するといった「奇跡」は勿論あり得ない。豊かさのために少子化が進み、人口が減っていくのも、社会の老化の歴然たる証拠である。こうした老化と衰亡の傾向を逆転することはむずかしいが、老化を遅らせ、「豊かな老後」を長く楽しむことなら可能である。本書のメッセージは、「社会主義との決別なくして活路なし」である。
今、「構造改革なくして景気回復なし」を正しいと思う人は多い。それは正しいとしても、それなら「構造改革あれば景気回復あり」だろうと考えるのは論理的に正しくない。同様に、社会主義を卒業することは必要不可欠であるが、それがただちに桜満開のような繁栄や病気一つしない元気な資本主義をもたらすわけではない。それにしても、政府や政治に「経済のお天気」をよくしてもらいたい、困った時は助けてもらいたいという「お上依存症候群」だけはいい加減に卒業したほうがよいのではないか。「全体がよければ自分もよい、だから全体を・・・」という発想は捨てるべきである。全体がどうであれ、自分がよくなることは可能であり、そう言う人が多くなれば全体もよくなったように見えるだけのことではないか。これが著者からのメッセージである。
過去の権益を守ろうとして戦えば戦うほど惨禍は大きくなる。徹底抗戦など論外であり、すみやかに敗戦処理と戦後改革に取り組む必要がある。資本主義の基本原則は、「より少ないコストで最大の利潤をあげる」ことであり、その成功の基本戦略は「魅力ある新製品を開発して独占的優位を確保する」ことである。
社会主義とは、市場と資本主義の原則に反する原則を導入するやり方である。
- それは政府(官僚)が他人のカネ(国民の税金)を他人(国民)に分配し、また他人(国民)のために使うことで成り立っている。
- それは政府(官)がゲームを規制し、ある人々や企業を保護し、ときには政府自身が独占的ビジネスをおこなうことを特徴とする。
1.は、「自分のカネを自分で自分のために使う」という市場経済の原則に反している。2.は、「人も企業も自己責任で(自分でリスクを負担シテ)ゲームに参加する」という資本主義の基本ルールに反している。日本流の社会主義とは次のようなものである。
- 市場経済と資本主義は否定してもほかにやり方がないからである。
- 官が業界(市場)ごとに自分のナワバリをもち、そこで行われる経済のゲームを管理する。
- 規制によって参入を制限し、競争を制限して高価格を維持できるようにし、弱い業界、企業を保護する。場合によっては、価格・流通を全面的に国家管理とするような制度をつくって保護する。
- 親方日の丸」の国営企業や類似の特殊法人などを増殖させる。
- 金融部門を財務省の強力な統制下におく。
- 財政を通じて中央から地方へのカネ(税金)の再配分を行う。
- 「負担できる人が負担し、必要な人が受け取る」という各種の社会保険制度を中心にして、福祉国家という福祉配給システムをつくり、平等化をめざす。
- 経済活動の主役を「従業員主権」の「会社」と言う社会主義的集団とし、この「会社」が終身雇用・年功序列という社会主義的原理によって雇用を維持し、分配の平等化をはかる。
これはかつてのソ連型社会主義とは違った、もう一つの洗練された社会主義なのである。
資本主義に対して政府の成すべき仕事は、結局のところ次の2つだけになる。
- 資本主義のゲームに必要なルールを整備し、反則摘発の態勢を整える。そして無用なルール、慣行は廃止する。
- やむをえない事情で自力で生きていけない人々を救済する。
再配分の仕事(社会主義)を大大的にやることなど論外である。また、「OOの推進」、「OOの充実」、「OOの整備」といった、一見有意義そうな仕事を次々に作り出す必要もない。
政府の成すべき最も重要な仕事は、資本主義のゲームのルールを整備することである。サッカーでも野球でも、ルールは万国共通だからこそ世界中で国際試合が出来るのである。
構造改革とは、社会主義の構造を取り壊し、普通の市場経済、普通の資本主義への立て直しを進めることにほかならない。構造改革とは、金融や郵政をはじめとして、「民間と利益を争っている」政府系機関を整理し、政府の仕事で民営化できるものは民営化して、最終的に社会主義と決別することである。
日本には特殊法人、公益法人というわかりにくいものがある。これは、「公益に関する社団または財団で営利を目的としないものは主務官庁の許可を得てこれを法人とすることができる」という民法34条に基づいて設立されたもので、現在約2万6000(職員約55万人)に達する。これらの公益法人には、国や自治体、特殊法人の仕事の補助・下請けを独占ビジネスとして行っているものが多い。
政治は衰退産業だ。政治が完全な衰退産業となったのは、魅力ある商品がなくなり、需要を失ったからである。デパートと同様、いまは政治にも売れる政策がなく、魅力的なリーダーもいない。消費者・有権者からすれば、買うべきものがないということである。「支持政党なし」が増えるのも当然の成り行きであろう。
国の赤字を解消するには、次の3つしかない。
(1)増税によって借金を返済する。
(2)ハイパーインフレレーションを起こして借金を帳消しにする。
(3)100年かけて借金を返済する(と称して、実は返済しないで放置する)。
(1)の増税路線がダメなら、奥の手は(2)の路線である。しかし数年間で物価を10倍にするほどの犯罪的インフレをやるには、その政権の担当者やブレーンは超一流の詐欺師でなければならないが、幸か不幸か、日本にはこのような人材には恵まれていない。そこで落ち着くところは、結局(3)の無責任路線ということになる。
現在の少子化の問題は、「貧乏で子供はつくれない」ということだと解釈したほうがよい。これが1人当たりのGDPの大きい先進国ほど子供が少なくなり、人口が減っていく理由の一つである。日本もこの道を進んでいる。
社会保険による医療システムというものは、高齢化・少子化・人口減少が進行する社会では成り立たなくなる性質のものである。カネを負担する人が減る一方で、高齢者を中心として、医療サービスを必要とする人は増え続ける。それでも制度を維持しようとすれば、
A:医療保険料を引き上げる(全員の負担増となる)
B:患者の負担を引き上げる
C:出来高払いをやめて支払いに上限を設ける
保険でカバーする医療サービスの中身を制限する、サービスや医薬品の価格をひきさげるなどの方法で医療費の膨張を抑える(医師・病院・製薬産業の不利益となる)しかない。Aが度を過ぎると、人は高くつく保険には入りたくないと考える。Bの負担があまりも重いと、保険にはいった意味がなくなる。Cは政治的な理由から実行困難であろう。「三方一両損」的なつじつま合わせでは、それは改革でも何でもない。
マルクスは、資本主義はその欠陥(矛盾)によって失敗し、崩壊するといった。資本主義は貧乏を克服することはできない、労働者は貧困のどん底に落ち込み、資本家、企業は儲からなくなる、つまり資本主義は失敗して倒れてしまう、というのがマルクスのビジョンだった。これに対してシュンペーターは、資本主義はその成功と繁栄によって官僚化し、その本来の活力を失い、終わりを迎える、といった。ここは明らかにシュンペーターの説があたっていると言うべきであろう。成功が失敗の原因をつくり、成功したやり方に執着することがやがて次の失敗を招くのである。こうしてみると、日本が現在の禍を転じて福となす方法は一つしかないことがわかる。それは過去の贅沢の産物として身につけた社会主義という皮下脂肪をそぎ落とし、不良債権という腫瘍を切除し、世界最悪の財政赤字病を治して、普通の市場経済、普通の資本主義という健康体に復することである。
以上が内容の概要である。個人が自由に、自分の責任でそんな生き方をするためには、邪魔になるものは壊れてしまったほうがよいし、個人の賢明かつ懸命な行動が積み重なって、いずれそれを壊していくものと思われる、と著者は語る。日本型社会主義が成功を収めたかに見えたのは、戦後、資本主義が奇跡的な好調を維持して成長を続けたおかげであり、その成長の成果を社会主義の手法で再配分することが出来たからである。日本は社会主義をやったために経済成長したというのは錯覚で、社会主義のような虫のいいやり方は成長期にだけできる特別の贅沢のようなもので、成長が終わり社会が老化の段階をむかえると、もはや成り立たなくなる。この辺の事実を我々は知らなくてはならない。そして、国破れても個人は破れない。それだけに自分の能力向上を図り、いかなる環境になろうとも立派に生きていけるようにように自助努力を続けていくことである。
|