ウィリアム・W・グライムス氏は、若手の日本研究者として米国で将来嘱望されている新進気鋭の政治学者で、ボストン大学国際関係学部助教授である。著者は東京大学大学院、大蔵省財政金融研究所、日本銀行金融研究所にもそれぞれ在籍していたことがある。
1985年以後のマクロ経済政策が日本を低迷させた。日本の政策決定の構造が政策の選択肢を限定し、この15〜20年間に行われた不適当なマクロ経済政策を促した。日本経済の停滞は確実に構造的な失敗であり、本書はその失敗の構造を冷静に分析している。
まず第1に、本書はプラザ合意後の1985年からバブルの生成・崩壊とその後始末、さらに経済再生に苦闘する2000年までの15年間におけるマクロ経済政策の決定・運営・失敗の経過を、ただ単にマクロ経済学の角度からの検討にとどまらず、政治学の手法も駆使して総合的、包括的に分析している。
第2に、政策決定への政治の関与と、そこでの政党、大蔵省、日本銀行といった政策関与機関それぞれの組織と機能、組織間の対立、組織の担い手たちの役割、組織の力の源泉、権限保持のための策略と手段の諸点について、日本語で書かれた第1次資料を広く渉猟し、多くの要人や政策担当者との直接の面談を通して的確な位置付けを行い、方法論を確立している。
第3に1985年より2000年に至る15年を4つの期間に分けて、それぞれの期間についてマクロ経済政策の決定と失敗の過程を具体的かつ徹底的に検証している。
1980年代後半、日本は繁栄と成長の絶頂期を謳歌していた。1985年から1990年までの国内総生産(GDP)成長率は平均して4.6%に達し、日経平均株価は3倍になり、地価は上昇した。しかし、1991年に入ると資産価格が急落し、経済成長が鈍化した。1980年代後半の繁栄が投機バブルによってもたらされたものであったことが、まもなく明らかになった。
日本のマクロ経済の病理は、巨大なマクロ経済の問題を解決するために金融政策に過度に依存し、財政政策の緩和を極端に回避したことに原因があった。1985年から2000年までの期間は次の3つの理由から大きな意味がある。
第1は、この期間が日本における過去に例のないマクロ経済政策の失敗の期間であったということ。第2は、固定為替相場制度の崩壊と二度の石油危機による国際的な変動の時期の直後から観察することによって、日本の国内における政策決定システムの力学を一段とはっきりと認識できることである。第3は、1985年がこれから検討する一連のきっかけとなったプラザ合意の年であったことである。1990年8月30日に公定歩合は2.5%から6.0%に引き上げられた。金融引き締め政策の効果は強烈だった。株価は劇的な下落を示し、土地投機熱は冷やされ、産業界は融資を受けられなくなると不満を漏らし始めた。1992年の後半に入ると景気は失速、1993年以降、景気の後退と金融危機に終止符を打つための施策が相次いでとられたが、2000年の時点でも安定軌道に戻すことに成功していない。
バブルの後遺症の中で、構造的硬直性に関する議論の焦点は、各種の金融機関の行動をもたらした誘因といわれる護送船団システム(銀行の破綻は一切許さないという暗黙の保障)に絞られた。護送船団システムと、銀行と住専に異なった融資基準をあてはめるという政策が、金融機関にリスクを進んで取らせる効果をもたらしたことは確かであったが、このようにしてとられたリスクとその結果はバブルを引き起こし、そして破裂させたマクロ経済政策によるものであった。従って問題を解く鍵は、なぜ政策当局がマネーサプライの急増を放置し、突然、その拡大にストップをかけたかということにある。バブルは円に対する海外からの圧力をかわすために行われた流動性の過剰供給の結果だったからである。この金融政策が大蔵省によって進められたことは間違いのないところだ。この状況に対する責任は組織の仕組みにあるという主張は、大蔵省に対する日本銀行の独立性の欠如もしくは、しばし当然のように前提視されている、予算編成に対する政治家の介入を拒絶する大蔵省の権力に根拠をおいている。
バブル期には、通常の物価上昇は問題にすらされていなかった。しかし、インフレ圧力を自ら認識しながら、それを阻止するために自分から動く能力が日銀に欠けていたことが、その後の長期間に及ぶ日本の金融・経済の不安をもたらした大きな要因であった。
加藤淳子氏(東京大学助教授)は、日本の政策決定過程における官僚の影響力は構造的なものでも、また歴史的に与えられたものでもなく、ときどきの状況や当該官庁によって選択された戦略と結びついており、それゆえ「官僚の影響力を強めるのに役立っている特別の条件を明らかにすること」が重要であると言っている。官僚は政治の世界に距離をおくよりも、むしろ政治に積極的にかかわることによって政策決定に最も効果的に影響力を及ぼすことができると言ってもよかろう。
国会議員の仕事の中心は、2、3年ごとの選挙で当選するために選挙民を満足させることである。しかし、選挙を通して権力を獲得するためには当選を重ねることが基本的な要件であるが、このことは単に必要条件であるに過ぎない。自民党内で頭角をあらわしていくには、年功、派閥内での力量(特に資金調達力)、特定の政策分野における専門能力、の3つが必要とされてきた。
大蔵省は長年、異常なほど広範な分野にわたって機能と法的権限を保有してきた。これらのどれ1つとっても、官界には強力なライバルはいなかった。1998年まで大蔵省は、予算の査定と編成、税制に関する政策決定と税金の徴収、郵便貯金と国有財産の管理、関税と輸入割当の決定と執行、金融市場に関するあらゆる規則の制定と執行を所管していた。同時に政府認可の専売事業とアルコール飲料業界に対する監督権を持ち、多くの公営企業を実質的に支配していた。大蔵省は、巨大な情報処理機関と考えるのがおそらく最も正確なのかもしれない。情報を収集して自分に関係あるものを選択・整理・分析し、指針・政策という形に作り上げていく情報の管理が大蔵省の仕事の中心であると言えよう。
最近の日銀法の改正までは、大蔵省の巨大な政治力が日本銀行の本来の自主性を大きく制約してきた。自主性を維持・拡大するための日銀の主な戦略は、情報源に対する支配を確保し拡大することであった。しかし、一連の人事その他の面での慣習が、長年の間に日銀の政策決定への大蔵省の関与を許してきた。
政治家は短期的には一般にマクロ経済政策には関心が薄く、自分たちの代理人とみてきた大蔵省の連中の決定をひっくり返すだけの自信をもっていない。一般的には自民党の指導部でさえ、何らかの危機感や政治力を相当に使い切るという覚悟がない限り、官僚に影響力を行使することができない。
1998年、法制面で2つの重要な変更が行われた。改正日銀法の施行と金融監督庁(その後、金融庁改称)の設置である。1993年以降、マクロ経済政策に関わる人的構造にも変化が起こっていた。これらの動きは大蔵省の権力とネットワークの力を減殺する上で、極めて重要な意味を持っていた。金融監督庁の設置は、国内の金融の規制と監督を大蔵省から完全に取り上げるための第一歩で、この試みは2000年7月に完了した。大蔵省は金融政策並びに金融監督の機能を奪われたことで万能性を失い、その結果、情報と政治権力の重要な源泉に対する支配力まで失った。
情報管理の最後は外部に対する遮断である。言い換えれば、どの程度まで情報を内部にとどめ、自身で解釈したものを真実として外部の関係者に受け入れさせることができるかということである。元厚生官僚の宮本政於博士は、日本の官僚の情報に対する考え方について「大衆にはできるだけ情報を与えない。これが第1の原則である・・・私が役所に入ったとき、教えられた最も重要なことは、『われわれが情報を支配している。誰かに情報を与えるということは、その人物に便宜を図るということである。彼らにはこの情報を手に入れる権利はない』ということだ」と述べている。大蔵省は大量の情報を作り出し、それを政治やその他の場で利用できるように分析・整理しているが、同時にそれらを秘匿して自分にとって都合のよいものだけを公表しようとしている。
自民党の最も顕著な特徴の1つは、非公式な、しかも高度に組織化されたイデオロギーとは無関係の派閥の存在である。自民党の派閥は基本的には所属議員の利益を図るための組織で、政策目標のためのものではない。もともと派閥は個人的忠誠心に基づいたもので、多くは自民党の前進の各政党を引き継いでいた。その後、派閥は増殖して高度に組織化され、やがて自前の事務所を構えて定期的に会合を開き、正式の階級制度を持つようになった。「族」議員とは、ある政策分野でくわしい知識とネットワークを持つ自民党国会議員のグループで、官僚の権力の抑止勢力として期待された。族議員は派閥横断的である。
日本の予算の仕組みはわかりにくい。国際通貨基金(IMS)は長年にわたる日本政府との意見の不一致によって日本の予算の数字を公表してこなかったが、経済協力開発機構(OECD)は自身の国民所得会計基準に従って数字を検証してきた。日本予算の分かりにくさのひとつは、一般会計に加えていくつかの特別会計や財政投融資計画など、多くの帳簿があることである。勘定は重複しており、財源はかならずしも明確でない。さらに政府部内の資金移動や地方公共団体との間での信用の供与・返済に関する会計制度に整合性がほとんどない。この結果、予算の数字の意味するところを外から正確に判断することが非常に難しくなっている。
1992年秋、悲惨なほどの株価下落に対応するために、今までにない最も無謀なミクロ経済面での介入が始まった。資産価格のデフレの結果、銀行の自己資本と貸出の担保不動産の価値が劇的に下落した。1992年の後半になると、マスコミは全業態の金融機関の不良債権が膨れ上がりつつあると一斉に報道し、銀行貸出の伸びは1990年の10%以上から1992年には約2%まで落ち込んだ。過去に対して何らの手も打てないままに、資産価格の一段の下落が銀行の自己資本と担保の一層の減価を意味することがはっきりしてきた。これはスパイラル的に新規融資の減少と不良債権の増加をもたらすものであった。
政治家は1990年代の中頃までに大蔵省の力を奪い、マクロ経済政策でかなりの力をつけていたが、1996年、従来の枠組みを根本から変える新しいルールを模索し始めた。1990年代の政策の大失敗を理由に、有力な政治家達は大蔵省の権力の中核的基盤となっていた構造を直接攻撃した。その結果として起きた変化はマクロ経済政策の決定過程に、そしてやがてマクロ経済政策そのものに非常に大きな影響を及ぼし始めた。
マクロ経済政策の決定構造における変化は、実に歴史的な出来事である。大蔵省が解体はおろか、金融政策における優越的な地位を失うという事態は、1985年あるいは1995年でさえほとんど想像すらできなかった。日本銀行は今やほぼ独立を達成し、政策について大蔵省と協議しなければならないという法的義務もなくなった。2001年1月の名称変更にはっきりと示されたように、大蔵省は主として財務を取り扱う省となった。そして国会は日銀の公式な監視機関となり、予算の主導権を取り戻しただけでなく、自ら日本のマクロ経済政策の決定構造を解体・再構築する設計者となった。
それにもかかわらず、官僚は政治家の従順な召使におさまらず、独自の政治的主体となっている。官僚の権力の源泉は人事権、情報管理ならびに法的権限からきている。
以上でお分かりのように、著者が日本の大蔵省財政金融研究所、日本銀行金融研究所に在籍した経歴を持ち、なおかつ日本人の友人を多くもっていることもあるが、よくここまで日本のマイクロ経済の政策決定などの経緯や、それに関する政治の関与、またそれに関係する組織などについても克明に調査して理論展開したことに驚嘆する。そして結論はこの15年から20年に渡って行われた不適当なマクロ経済政策、すなわち、金融政策に過度に依存したこと、そして、財政政策の緩和を極端に回避したことが原因だとしている。
果たして日本は本当に良くなるのだろうか?良くなる可能性は、本質的な改革がなされるかどうかにかかっていると言える。
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