著者のジョセフ・E・スティグリッツ氏は、ノーベル経済学賞の受賞者である。アーマスト大学卒業後、マサチューセッツ工科大学大学院に進み、イギリスのケンブリッジ大学へ留学、博士号を取得。エール大学をはじめオックスフォード、プリンストン、スタンフォード大学で教鞭をとる。1993年3月クリントン政権の大統領経済諮問委員に参加し、1995年6月経済諮問委員長に就任、アメリカの経済政策の運営にたずさわった。
本書はアジアやロシアなどで経済危機の原因をつくり、危機を拡大させたのはIMFをはじめとする国際経済機関であり、グローバリズムを標榜するそうした組織がいかに硬直し、誤った政策を推進しているかを赤裸々に明らかにしたものである。著者は経済問題や社会問題に取り組む場合、問題を冷静に見つめ、イデオロギーを脇において、証拠をふまえてから、最善と思われる行動を決定すること―――それが重要だと考えている。だが残念ながら、イデオロギーや政治によって決定が下される場面に何度となくぶつかった。その結果、方向性を誤った行動がいくつもとられた。それは現在の問題の解決には結びつかず、ただ権力者の利害や信念に沿っているだけなのである。
巻末にリチャード・クー氏の解説が記載されているが、本書で展開されるスティグリッツ教授の話は、「エチオピアからボツワナ、コートジボアールなど世界中のあらゆる場所を自分の足で回って見てきた経験がもとになっている。一方、IMFはどうかというと、当該国首都の5つ星のホテルに泊まり、中央銀行と財務省の人間にだけ会ってデータを見合わせ、それだけで重要な経済政策を決定しているのである。これではIMFはとうていスティグリッツ教授に太刀打ちできないだろう」と述べている。また、リチャード・クー氏は「スティグリッツ教授は、日本経済についてはほとんど言及していないが、実は、“早く不良債権を処理して、腐った企業を淘汰し、解雇すべきものは解雇しろ”という市場原理主義によるショック療法の弊害は、残念ながらいまの日本にもぴったり当てはまる。日本の“小泉改革”はこれとそっくり同じ政策なのである。本書を読み進めていくと、世界各地でスティグリッツ教授が発展途上国で見てきたことと同じことがこの国でも今起きているのではないかと恐ろしい感じにとらわれるのである。腐った企業を淘汰して労働力を新しい分野に移動させようということがいま日本でよく言われている。完全雇用のときに新しいものをつくるために生産性の低い古い分野を淘汰するのは当然である。そうでないと人も資源も新しい分野へ移らないからである。ところが、いまの日本は完全雇用とはほど遠い。5月の完全失業者は375万人もいる。ホームレスの数がこれだけ多くなっているときに、「とにかく不良債権処理だ。企業をどんどん潰せ」というのは本当に恐ろしいことなのである。スティグリッツ教授も言うように、低生産性は失業よりはましなのである。雇用創出の条件が整う前に雇用破壊につながる政策を強要したら経済はもたない。
本書は主にIMFと世界銀行に焦点を当てている。その理由は、金融危機、そして旧共産主義国の市場経済への移行を含むここ20年の経済問題の中心に、この2つの機関が存在したからである。ベルリンの壁が崩壊すると、IMFには新たな活動の分野が生まれた。旧ソ連およびヨーロッパの旧共産圏諸国を市場経済に移行させることである。設立から半世紀が経ち、IMFが当初の使命を達せられなかったのは明らかである。IMFは期待されていたこと、すなわち経済の下降に直面している国に資金を提供し、完全雇用に近づくまで経済を立て直させることができなかった。いくつかの試算によれば、100に近い国が危機に直面した。しかも、ひどいことにその世界的な不安定性の原因となったのは、未成熟な資本市場の自由化を中心とする、IMFを推進した多くの政策だった。どこかの国が危機に陥るたびに、IMFの融資や計画は状況を安定させるのに失敗しただけでなく、たいていは事態を一層深刻にし、とくに貧困層の生活を悪化させた。IMFは、世界的な安定の推進というそもそもの使命を果すのに失敗しただけでなく、その後に引き受けた、たとえば旧共産主義国の市場経済への移行を導くといった新しい使命にも成功しなかった。
1997年3月、世界で最も貧しい国の1つであるエチオピアを訪れたとき、私は初めてIMFの驚くべき政治と算術の世界をありありと見せつけられることになった。エチオピアの1人当たりの収入は年間110ドルで、国はあいつぐ旱魃と飢饉に苦しみ、それまでに200万人の死者を出していた。スティグリッツ教授がエチオピアを訪れたとき、IMFはエチオピアへの融資計画を中断していた。エチオピア政府の収入源は2つあった。税金と海外からの援助である。エチオピアの収入の大半を海外援助によって得ていた。IMFは、その援助が断たれればエチオピアは苦しくなることを危惧した。したがって、支出が税収の範囲内におさまっていなければ、エチオピアの予算は万全だとは判断できないと言うのである。エチオピアのマクロ経済状況について、IMFの見方は間違っているという明らかな証拠があったにもかかわらず、IMFのエコノミストたちは自説を曲げようとしなかった。
1997年から98年にかけて、東アジアの危機は次々と他の国に広がっていった。その間にIMFがおかした多くの誤りの中でも最も理解に苦しむのは、それぞれの国で追求される政策の重要な相互作用になぜ気付かなかったのかということだ。ある国で実行された縮小政策は、その国の経済を圧迫しただけでなく、周囲の国々にも悪影響を及ぼした。縮小政策を提唱しつづけることにより、IMFはある国の景気下降をどんどん隣の国へ伝染させていったのである。どの国も経済力が弱まると、周囲の国からの輸入を減らした。したがって、周囲の国も経済力が低下することになったのである。
著者は国際金融システムの改革について、必要な7大改革として次のことを提案している。
- 資本市場の自由化には危険が伴い、短期資本の流れ(ホット・マネー)には大きな副次的影響があるため、取引の直接的な当事者(貸してと借り手)以外の関係者が費用の負担を受け入れること。
- 破産法の改定とスタンドスティル。民間の借り手が債権者に返済できなくなった場合、問題に対処する適切な方法は、国内であろうと国外であろうと、破産である。IMFの融資による債権者の救済ではない。必要なのは、マクロ経済の混乱から生じる破産の特性を認識した破産法の改正である。
- 救済措置に依存する度合いを低くすること。破産法とスタンドスティルの適用が増えれば、大規模な救済措置の必要性は減るだろう。
- 先進国と途上国の両方における銀行規制の改善。
- リスク管理の改善。世界各国は今日、不安定な為替レートによる大きなリスクに直面している。
- セーフティ・ネットの改善。リスク管理の仕事の1つは、国内の弱者がリスクに対処する能力を高めることである。
- 危機対策の改善。1997年−98年の危機では、危機対策の失敗を見た。与えられた援助は計画が杜撰で、実施の手際も悪かった。このときのプログラムでは、セーフティ・ネットが乏しいこと、信用の流れの維持がきわめて重要であること、諸国間の貿易の崩壊は危機を広めることなどが十分に考慮されていなかった。
グローバリゼーションが非難されるのは、一つにはそれが伝統的な価値観をゆるがすように思われるからである。そうした衝突は事実であり、ある程度はやむをえない。経済成長は―――グローバリゼーションによるものも含めて―――都市化を招き、伝統的な農村社会をゆるがすだろう。残念なことに、グローバリゼーション推進の責任を負った者たちはこれまで、好ましい点を賞賛する一方で、文化的独自性と価値観にとっての脅威という不利な面については、不十分な認識しか示してこなかった。
グローバリゼーションが今後もこれまでと同じやりかたで進められ、われわれが間違いから学ぼうとしなければ、グローバリゼーションは開発の促進に成功しないばかりでなく、貧困と不安定を生みだしつづけるだろう。資本主義のシステムは今日、大恐慌のときと同じように重大な岐路に立っている。
以上が著者の主張である。巻末に解説をしているリチャード・クー氏は、スティグリッツ教授はIMFのいわゆる無謬性、秘密主義についてもずいぶん言及されているが、無謬性、秘密主義は日本の財務省にもそのままあてはまる話である。これだけ財政再建で失敗したのに、なぜ相変わらず財政再建というのか。答えが1つしかないのは、IMFとまったく同じである。間違いが何回もおかされてバランスシート不況から脱却するチャンスを何回も潰してきたにもかかわらず、それを財務省は認めようとしない。認めないどころか、財務省の官僚はこそこそと政治家を回って、われわれ納税者が納めたお金で彼ら間違ったプログラムを推進しようとしている。こうしてみると、日本のことでもあることがよくわかってくる。その意味でも本書は大変示唆に富んだ本だと言える。
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