木村剛氏は1962年富山生まれ。東大経済学部卒後、日本銀行に入行。ニューヨーク事務所、国際局など主要部局を歴任。98年3月、金融サービスに関する総合コンサルティングを行うKFi代表に就任、現在に至る。最近竹中大臣の諮問委員会メンバーに選ばれ話題を呼ぶ。
本書はプロローグと、全4章に分かれている。著者が言いたいのは、資本主義とは何かという問いかけをするとともに、われわれが今なさねばならないことは、日本資本主義を再定義し、ニッポン・スタンダードをつくることだと説く。それが、米国資本主義的な堕落から、日本資本主義を守る唯一の方策だという。
近年、日本経済が閉塞感に陥ってきたのは、ニッポン・スタンダードが確立されていないことと無関係ではない。少なからぬ企業と個人が将来に対する不安を否定しきれないのは、この国の明日の方向が見えないからだ。ニッポン・スタンダードは、その方向を定めるための現実的な営みでもある。国内に存在する618万事業所のうち、中小事業所は99.3%の614万事業所を占めている。就業者数では80.6%。中小企業は、日本経済そのものと言っても良い。
日本経済は、不良債権問題という病を患ってから、10年もの歳月を無駄に浪費してきた。本来であれば、不良債権問題など10年もかけずに片づく問題である。実際、世界の3分の2の国々は不良債権問題もしくは銀行危機を経験しており、不良債権問題を認識した時点を基準にすると、外科手術を実施して、問題を克服するまで3年から5年で終結を見せている。隣国の韓国もそうである。2002年4月12日小泉首相から「銀行の体力を気にせず特別検査を断行せよ」という命令が柳沢金融担当大臣に下った。対象融資先は149社、総額12.9兆円。そのうち査定が下方修正されたのは71社で、金額は7.5兆円と発表された。なかでも建設業、不動産、卸小売業、ノンバンクの4業種は47社を占め、金額ベースでは84%(6.3兆円)と圧倒的だった。この結果、大手13行の不良債権処分損は7.8兆円を上回り、経常利益ベースで全行が赤字に陥る。
退場していただく銀行の選定において決定的な影響を及ぼすのは、それぞれの銀行における大手20社から30社の不良債権に対する大幅な引当不足であるからだ。1億円の貸出先が5000社一斉に倒産することによって破綻した銀行はない。多くの場合は、1000億円を超える大手問題先が破綻して銀行の屋台骨を揺るがすというのが、古今東西多く見られる銀行危機パターンなのである。
普通の場合、誰がどう考えても、「まずは、大手問題先30社の引当不足を解消せよ」と指示するだろう。まかり間違っても、「大手問題先30社の引当をすると、資本不足が明らかになってしまうので、中小企業1000社の方からやれ」などと言わないはずだ。しかし、わが国の金融庁は、「まずは、中小企業1000社を直接償却してしまえ」という方針を掲げている。これは、本当に愚かな政策である。このままでは、真綿で首を締めるように、日本経済は窒息死していくだろう。
「実現可能かつ有効」な経済政策を立案するときには、「政策目的」を明確にした上で、その政策目的を達成するために管理下に置くべき「ターゲット」を設定し、そのターゲットを管理するための具体的な「操作手段」を認識する必要がある。このように整理して考えれば、まず、
- 条件1.政策目的とターゲットが強い連関性を持っていなければならない。
- 条件2.ターゲットは、操作手段をコントロールすることによって管理下に置くことができなければならない。
- 条件3.政策担当者は、操作手段を自由自在にコントロールできなければならない。
この3条件を満たさない主張は「経済政策」として欠陥品だと言わざるを得ない。
条件1は、経済政策は、人々や企業の行動に対して何らかの影響を与えるためのものである。したがって、「人々の生活や企業の行動、それを取り巻くルールの束に対する深い洞察」が大前提となる。条件2は、ターゲットは、操作手段をコントロールすることによって管理下に置くことができなければならない、という観点である。条件3は、政策担当者は操作手段を自由自在にコントロールできなければならない。これはじつに重要である。
私なりの感性でいえば、米国は荒々しい「資本の本性」が剥き出しになった「タフな資本主義」、日本は「資本の本性」を感じさせない「優しい資本主義」ということになろう。日本においては、「オーナーシップ」の感覚が希薄だ。株式保有は、「パートナーシップ」の標章という意味合いが強い。また、資本対価も米国資本と比べればかなり低い。もしも、日本資本主義の「優しさ」が米国資本主義を高度に洗練し、荒々しい「資本の本性」を飼いならした発展型なのであれば、日本の優位性を主張することが可能だ。しかし、その「優しさ」が「日本が資本主義ではない」ことに起因するとなれば話は異なってくる。日本は会社という形態を採っていたものの、その実態は機能集団ではなく、共同体そのものであった。だからこそ、どんなときにも身内をかばうという共同体のビヘイビアが優先された。利益よりもムラの維持―これが共同体の掟である。
無理やり色分けすると、米国資本主義には、「従業員は自分のために働く」という大前提がある。企業忠誠心は低いから、企業文化は「会社よりも自分を守る」というカルチャーである。こうした経営環境のもとでは、「何も言われなければ従業員は働かない」、「管理しなければ多くの従業員は悪事を働く」という前提で内部管理が組み立てられている。これに対して日本企業は共同体だから、「従業員は会社のために尽くす」という前提から話が始まる。企業文化は「会社に尽くせば報われる」というカルチャーである。
高度成長が終焉し、人口構成が逆三角形になっていくなか、経営者がムラオサの役割を放棄する。共同体としての日本企業は崩壊し、日本資本主義の特質である共同体主義という背骨が溶けなくなってしまった。いま日本企業の経営者は、米国資本主義のように、「オレがボスだ」、「お前はクビだ」という行動にでている。日本も資本主義を名乗っている以上、最低限のルールは遵守されなければならない。最低限のルールとは、「借りた金は返す」、「貸した金は回収する」、「契約は守る」、「真実を開示する」といった基本的な約束事だ。これらが守れないと、資本主義を支えている「規律」という柱が崩れてしまう。「ルールの束」をもって、「資本の本性」に「規律」を与える―これが、資本主義の基本構造なのである。重田澄男氏は、「資本主義とは、資本家や企業が賃金労働者を雇って利潤の獲得を目的として行う近代社会特有の生産の形態、ならびに、それを基礎とした経済構造、社会体制」と定義づけた。
企業が成長する原動力は、経営者の意志によるところが大きい。教科書で学んだ経営するための技術(skill)ではなく、熱く燃え盛るような経営者としての意志(will)が重要なのである。経営には技術は必要だが、強い意志がなければ、決して業など興せるものではない。企業経営には、使命感と何がしかのミッションが必要なのである。
資本主義が成り立つためには、私的所有権と契約自由の原則が確立され、私的所有権が侵害されたり、契約が履行されなかった場合に、強制力をもって是正処置が行われる社会制度(=ルールの束)が確立されなければならないのである。
新しい日本資本主義=「ニッポン・スタンダード」
- 感謝(経営者による株主への感謝)
- 自律(経営者による自治、自律した管理職と自律した従業員)
- 互助(自律した管理職と自律した従業員による助け合い)
米国資本主義=荒々しい「資本の本性」が剥き出しの資本主義
- 支配(株主による経営者の支配)
- 服従(経営者に対する従業員の服従)
- 命令(経営者による従業員に対する命令)
達観すれば、日本資本主義の前提は性善説、米国資本主義の前提は性悪説と捉えることができる。日本が性善説を前提にできたのは、共同体主義が背景としてあったからだが、その前提条件は崩壊している。企業忠誠心は希薄化する一方で、「何もしなければサラリーマンは自分のためにしか働かない」という事態が現実のものになってきた。もはや、性善説を前提とした内部管理システムでは会社内部の牽制機能がまったく働かない。無防備なのだ。コーポレート・ガバナンスとは、経営者の過ちを制御するシステムのことである。そして、それが機能するには、経営者が企業を完全にコントロールしているという大前提が必要になる。
米国資本主義は、本来のミッションを忘れて、「おカネ儲け」という単なる結果にすぎないものを聖なるミッションと誤認してしまった。その一方、日本資本主義は、唯一の目的であった「共同体を守る」というミッションを見失い、「無魂洋才」の状態に堕している。おカネ儲けをミッションと誤認した歪んだ資本主義と、ミッションを失った抜け殻の資本主義。歪んだ米国資本主義と抜け殻の日本資本主義を比較して、どちらが勝ったとか、あちらが劣っているとか言い募っても、次元の低い空しい争いになる。だからこそ、ニッポン・スタンダードを創り上げるべきなのだ。日本資本主義にとって、いま一番必要なのは、守るべき価値―追求すべきミッション―を取り戻すということである。そのことが新しい日本資本主義―ニッポン・スタンダード?には不可欠である。
私は、日本人と日本企業と日本国に対して誇りと自信を持っている。そういう意味で、国粋主義者である。そして、誇りと自信をもてる日本人と日本企業と日本国であってほしいとつねに願っている。だから、日本経済に対しても誇りと自信をもっていたい。
以上が本書の概要である。著者は今問題になっているBISについて、次のように述べている。「問題企業への引当金を十分に積み増すことで不良債権処理を進めなければならない」のが著者の考え方であるが、批判する側は、問題企業への引当金を上積みすることこそ、猛烈な貸し渋りを生み出すことになる。なぜなら、銀行はもうほとんど株式の含み益をもっていないから、引当金を上積みしようとしたら準備金を取り崩すしかない。その分だけ自己資金が減ってしまうのだ。自己資本が減少すれば、BIS規制を守るために、銀行は貸し出しを圧縮しなければならなくなる。これは、銀行関係者達がよく使う脅しの基本テクニックだ。「適性に引当を積むと貸し渋りますよ。それでもいいんですか。恐慌になりますよ」という論理である。人々の関心を「脅迫」に引き寄せることによって、「適性に引当金を積む」という、当たり前の義務の部分から目をそらさせる。引当金を積むというのは、わが国の商法にも明記してあるルールである。と著者はいう。私も著者の考えに賛成である。それよりも、企業の債権放棄をいとも簡単になぜ行うのであろうか。中小企業には絶対あり得ないことだ。本書のなかで著者が説くように、アメリカ企業のやり方がすべていいわけではない。日本企業には日本企業の良さが沢山ある。その良さ、いざとなれば社員を守って社長が腹を切るようなことは多くあったものだ。本書を通し、いろいろな角度から考えていただきたい。
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