本書は、1995年に東洋経済新報社から刊行した「1940年体制 さらば戦時経済」の新版である。1990年代の後半に、金融機関の破綻や合併が相次ぎ、日本の金融界は表面的にはかなり変わった。本書が40年体制の象徴とみなした「日本銀行法」も、新法に変わった。金融庁が大蔵省から分離し、また大蔵省から財務省へ、通産省から経済産業省へ、日本開発銀行から日本政策投資銀行へなどの名称変更も行われた。しかし、これらは表面的な変化であり、日本経済の基本構造は、95年当時のままに残されている。このため、本書においては、第1章から第10章までは、基本的に旧版のままの形で残すことにした。そして、95年以降の変化と「40年体制論」の現時点での意義を考えるために、新たに第11章を付け加えた。
私は、日本の経済体制はいまだに戦時体制であることを指摘し、それを「1940年体制」と名付ける。これは2つ意味をもっている。第1は、それまでの日本の制度と異質のものがこの時期に作られたことである。日本型企業、間接金融中心の金融システム、直接税中心の税体系、中央集権的財政制度など、日本経済の特質と考えられているものは、もともと日本にはなかったものであり、戦時経済の要請に応えるために人為的に導入されたものである。第2の意味は、それが戦後に連続したことである。人事も仕事の進め方も、すべてが連続していた。事務次官は昭和10年入省、秘書課長は18年入省という具合に。
本書は次のように構成されている。第1章は全体の総論、第2章から第4章で40年体制の成立過程を見る。これらすべてに共通しているのは、(1)それまでの日本のシステムとは異質のものが1940年前後の数年間に導入されたこと、(2)それらが現在の日本経済の中核になっていること、である。戦時期に企業や金融の構造を変えたのは、資源を軍需目的に集中させる必要があったからである。40年体制は、なぜ終戦時に残ってしまったのか?その理由を第5章で考える。第6章と第7章ではこの体制が戦後の高度成長の過程で果した役割を検討する。第8章から第10章で現時点における40年体制の評価を行う。
第1条 日本銀行ハ国家経済総力ノ適切ナル発揮ヲ図ル為国家ノ政策ニ則シ通貨ノ調節、金融ノ調整及信用制度ノ保持育成ニ任ズルヲ以テ目的トス
これは、戦時中の古文書ではない。現代日本経済の中枢に位置する日本銀行の存立を定めた「日本銀行法」である。1942年に制定されたこの法律は、いまなお、日本の金融制度の基本法である。このことほど現在の日本を象徴的にあらわしているものはないだろう。日本の企業は、経済学の教科書にあるような株主のための利潤追及の組織というよりは、むしろ従業員の共同利益のための組織になっている。戦前期においては、日本でも経営者は会社の大株主であり、企業は株主の利益追求のための組織だったのである。そして、金融システムは、1930年代ごろまでは、直接金融、とりわけ株式による資金調達がかなりの比重を占めていた。このようなシステムが戦時期に間接金融へと改革された。これは、資源を軍事産業に傾斜配分させることを目的としたものである。
一方、官僚体制は、制度自体は明治以来の伝統をもつが、その性格は戦時期に大きく変貌した。それまでは官僚が民間の経済活動に直接介入することは少なかった。しかし、1930年代の中頃から、多くの業界に関して「事業法」が作られ、事業活動に対する介入が強まった。さらに第2次近衛内閣の「新経済体制」の下で、より強い統制が求められるに至り、「重要産業団体令」をもとに「統制会」と呼ばれる業界団体が作られた。これらが、官僚による経済統制の道具となった。また、営団、金庫など、今日の公社、公庫の前身もこの時代に作られた。次に財政制度である。戦前期の日本の税体系は、地租や営業税など、伝統的な産業分野に対する外形標準的な課税を中心とするものだった。また、地方財政はかなりの自主権をもっていた。1940年の税制改革で、世界ではじめて給与所得の源泉徴収制度が導入された。また、法人税が導入され、直接税中心の税制が確立された。
1930年代に入って、昭和恐慌を背景に経済統制が始まった。1931年には、「重要産業統制法」が制定された。この法律は、私的カルテルの助成を目的とした5年間の時限立法だった。同じ年に「工業組合法」も制定された。1941年8月には「重要産業団体令」が制定され、これに基づいて、1941年から42年にかけて統制会が数多く作られた。これは、重要産業において業界ごとのカルテルを結成し、会員企業に対する統制を行うためのものであった。
1945年8月15日、日本の降伏により太平洋戦争が終結した。これと同時に日本は連合軍の占領下におかれた。マッカーサーは10月に、日本民主化のための5大改革指令を発した。これは婦人解放、教育の自由主義化、専制政治からの解放、経済民主化、労働者の団結権の確立を内容とするものであった。これを出発点に財閥解体、農地改革、新教育制度施行などのいわゆる戦後改革が行われた。1946年1月、GHQは「公職追放令」を出した。47年1月に第2次公職追放令が追加された。一方で財閥解体も行われた。
農地改革も施行され、小作人が全農家の3分1を占めていたが、この改革により自作農民が創設された。この「戦後改革」によって日本経済の仕組みは、大きく変わったはずである。しかし、官僚制度、とりわけ経済官庁の機構は、占領軍による「大改革」にもかかわらず、ほぼ無傷のまま生き残った。このことは、現在にいたるまで、日本経済に重要な影響を与えている。官僚機構が無傷で生き残った第1の理由は、占領軍が直接軍制ではなく、日本政府を介して行う間接統治方式をとったことにある。いずれにせよ、官僚制度は生き残った。そして、これが現在に至るまで、日本社会の中で重要な意味をもち続けているのである。
1940年体制の特徴として第1に上げられるのは、「生産者優先主義」である。つまり、生産力の増強がすべてに優先すべきであり、それが実現されれば様々なな問題が解決されるという考えである。「個人貯蓄」を見ると、40年体制の導入に伴って、1930年には6%でしかなく、30年代前半までは10%程度しかなかった貯蓄率が35年頃から急速に高まり、38年には20%、41年には30%を超え、戦争末期には実に40%近くまで達している。40年体制の第2の特徴は、「競争の否定」というより原理的なレベルのものである。この体制は、単一の目的のために国民が協働することを目的としている。このため、チームワークと成果の平等配分が重視され、競争は否定される傾向にある。そこでの至上目的は脱落者を発生させないことである。現在存在する規制は、所得配分上の考慮からなされているものが多い。これは、1940年体制の平等主義と密接な関経がある。規制緩和が進まないのは、規制をおこなう官庁と規制で利益を受ける既存業者の既得権があるからである。一方国民の間に強い「官依存」体質があることも見逃せない。
40年体制は、明確な目的に対して全国民を総動員するという「戦時体制」であった。「成長」という総力戦に関してうまく機能したシステムは、「変化」に対しては機能しないのである。「会社人間」は、チームワーク的な効率性では優れていても、新しいフロンティアを求める革新的な企業家にはなり得ない。これまでうまく機能した仕組みは、いま閉塞状態に陥っている。
日本経済に将来の展望を開く基本的な道は、40年体制からの脱却である。真の「構造改革」とは、そうしたものでなければならない。「組織の大小」という区別でみると、1940年体制は、大組織中心の経済である。もちろん、中小企業は膨大な数にのぼるが、それらのほとんどは、経済をリードする革新的な企業とは言えない。多くは、大企業になれなかった企業である。そして、税制、補助、規制などの様々な面で政府の庇護を受けている。そうした庇護がなければ存立さえ難しくなる企業も多い。しかも、少なからぬ数の中小企業は、系列や下請けとして大企業に依存する形で存立している。大企業を中心とした企業グループが、1つの企業のようなものとなっている。多くの企業グループにおいて、中核に位置しているのは銀行だ。このグループの内部では、競争原理が働きにくい。それは、社会主義経済的な状況だ。系列のなかで閉じた関係が形成されているという意味で、1940年体制を「垣根で分けられた社会主義」ということができる。
40年体制のコアは不変である。
- 間接金融が支配的
- 企業経営者は内部昇進者
- 依然強固な系列関係
- ほとんど不変の財政制度
- 市場を否定するメンタリティー
技術を始めとする経済条件が大きく変化するとき、新しいビジネスモデルを求めてリスクに挑戦する必要がある。しかし、日本の企業はリスクに挑戦しようとしない。むしろ、リスクを回避しようとする。その原因は、2つある。第1は、銀行から借入によって設備資金が賄われていることだ。間接金融は、その性質上リスクマネーを供給できないため、リスクの大きな投資には向かない。したがって、新産業創出の障害になる。第2は、企業が雇用維持のための組織になってしまっていることだ。企業が失敗した場合、本来なら、従業員は別の企業に職を求めることになる。しかし、労働市場の流動性が低く再就職が困難であること、企業が従業員の共同体になってしまっていることなどから、企業の存続が最重要の課題になっている。このため、会社の破綻は、出きる限り回避すべきものと考えられている。
アメリカでは、1994年から98年の間に従業員20人未満の企業が生み出した新規雇用は約900万人で、全米新規雇用の8割になった。「フォーチュン500社」の企業に勤める人は、いまやアメリカ人10人に1人程度しかいなくなってしまった。実は、1990年以降の米国では、最も大きな変化が生じた。それは、多くのアメリカ人が企業に雇用される形態を捨て、自宅に作ったベンチャー・ビジネス、フリーランス、人材派遣会社からの派遣職員などの形態で仕事をするようになったことだ。つまり、「巨大企業から小企業へ」というだけではなく、「組織から個人へ」の移行が始まっているのだ。
目指すべき目標は、企業収益の回復である。そのためには、企業の構造とビジネスモデルが変わらなければならない。そして、それを実現するには、企業の意思決定構造が根本から変わらなければならない。
夢がある社会とは、期待の実現に向かってダイナミックに変化を続ける社会である。日本が明治新国家を建設する過程は、熱気に包まれていた。1960年代の高度成長期にもフロンティアがあった。我々はいま、それに匹敵するフロンティアを見出し得ないでいる。これこそが、日本が抱える最大の問題である。
以上が本書の概要である。本書にも書かれているように、日本の問題は古い制度にある。法律でも明治時代に作られた法律がまだ30%以上そのまま使われている。制度は環境の変化に従って変更していかないと、いろいろな面でよどみが生じてしまう。原則論で言うならば、制度=環境×原則でなければならない。すなわち環境の変化に基づき、原則論を重視して、制度の変更をしていくということである。本書に示されているが、この40年体制の基本理念として、「生産者優先主義」と「競争否定」がある。これらが現在に至るまで大きな影響力を持っている。それらを克服できなければ「消費者優先社会」や「規制緩和」は実現しないだろう。
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