Alan S.MillerはUCLA歴史学部卒、現在北海道大学院文学研究科教授。賀茂美則氏は東大文学部卒、現在ルイジアナ州立大学部准教授である。
日本の21世紀は、どのような時代になるのだろうか。そして、いま、どのような変化が、どういうふうに日本を襲おうとしているのだろうか。本書は、これらの問題の根源である「社会的・経済的な変化」に焦点を当てている。現在起きている変化は、日本社会をこれまでのような「きわめて秩序立ったもの」から「これまで以上に個人の自由を許容するもの」へと変えつつある。日本ほど社会秩序が大事にされる国はない。日本ほど社会関係と社会的な義務が強力な国はない。日本人は皆、複雑な社会のルール、義務、そして人間関係のしがらみにがんじがらめにされている。あえて言うなら、この「しがらみ」こそが、伝統的な日本社会とそれを定義づける特徴の要とも言うべきものなのだ。日本はどうやって日本でありつづけるのだろうか。強制的な人間関係と現状への安住につながる「悪いしがらみ」を破壊する一方で、日本社会の競争力向上と安定につながる「よいしがらみ」を残すことは可能なのだろうか。本書はこうした問に答える。本書はアレン・S・ミラー氏が第1、2、3、5、6章を英語で執筆し、賀茂氏が日本語に訳すと同時に手を加えた。第4章は賀茂氏が執筆し、ミラー氏が手を加えた。
21世紀を迎えた現在、これまでのルールが非常に速いスピードで変化している。新たな国際規範、新たな技術、そして経済的・人口学的な変化が絶え間なくもたらす影響のせいで、これまでのように日本人が森へ帰ることはだんだん難しくなってきた。これまで外界から日本をさえぎって身の安全を守ってきた木々は、いまとなっては邪魔になることの方が多いのである。日本はいま、変わらなければならない時期にきている。
「紀元前1万年から1750年まで、人類の生活はほとんど変わらなかった」と論じるのはあながち誇張とは言えない。しかし、18世紀になって人類の歴史を一変するような2つの出来事が起こった。ジェームズ・ワットによる蒸気機関の発明と、西ヨーロッパ全域で起こった農業生産性の飛躍的な向上である。この結果もたらされたのが「産業革命」であり、この変化は現代社会にもひき続き影響をもたらしている。
近代都市社会の特徴としては、これまでの研究から次の3つを挙げることができる。
- 近代都市社会での生活は、伝統的な小規模コミュニティの生活に比べて不安定である。
- 近代的な社会関係、特に都市住民における社会関係は、小規模かつ安定したコミュニティにおける社会関係よりも弱い。
- 大都市部では匿名性が強いので、1人ひとりの行動を監視し、罰を与えるのが難しい。
この3つの特徴は、数多くの実証研究によって裏づけられている。
アメリカで最も重要な社会的価値は「個人の自由」だが、これを強調しすぎるあまり、施行すれば必ず社会のためになると圧倒的多数のアメリカ人が信じている法律(例えば銃規制や児童ポルノ規制など)を作るにも大きな困難が伴うのだ。アメリカは、飛びぬけて高い犯罪率という対価を払う一方で、「個人の自由を尊重」するという利益を被っている。日本では「秩序と同調性」を重視する。その結果得られたのが安全でスムーズに運営される社会だが、その一方で、伝統的でないやり方を追求する者は許容されない。実際、日本人ノーベル受賞者のうち多くが、海外、特にアメリカの研究機関で働いていた経験をもっている。
アメリカ社会では人生の選択肢に事欠かない。人々は、置かれた状況が気に入らなければ、比較的簡単に他の選択肢に乗換えることができる。だからアメリカ人は、仕事や学校、専攻、時には友人や配偶者も比較的簡単に替えてしまう。しかし、日本の社会はこういった変化を歓迎するようにはできていない。学生は学校や専攻を簡単には替えられないし、労働者は職場を簡単には替えられない。学校のクラブや大学のサークルに入るという一見簡単そうなことすら、コミットメントを意味しており、そこから簡単に抜け出すことはできない。この依存が義務につながり、ひいては(可視性の程度によるが)同調性につながることが見てとれる。そして、この同調的行動は「自発的なものではない」ということだ。
企業内部で起こるホワイトカラー犯罪に関して言えば、「選択肢の不足」と「相互依存」という事実は、それを断れば解雇されるかもしれないという恐れから、従業員が違法な行為に異を唱えることをほぼ不可能にする。一方、地位の高い人同士の関係(多くの場合、一流大学出身者で占められるが)が奨励され、彼らに利益を与えるような暗黙の合意が生まれる。こういった行為に参加しない人は、出世コースから外されてしまうため、社会的な成功は覚束ないであろう。これは、「悪いしがらみ」の一例である。
日本が経験するだろう変化のほとんどは、人口学的あるいは経済的な変化によって引き起こされている。したがって、この変化がよいか悪いかを議論しても無駄である。いま本当に必要とされているのは、この変化がいかに大きな影響をもたらすのかを理解することである。日本は人間関係に基づいた社会だが、人口学的・経済的な変化のせいで、その根幹をなしてきた人間関係のしがらみを、いままで通りに維持することはもはやできなくなりつつあるのだ。もっと重要なのは、社会の一部分で起こった変化が、しばしば社会全体に波及することである。
アメリカでは小さい頃からしつけを厳しくする傾向があるし、両親とは別の部屋にあるベビーベッドに寝かすことが多い。母親がいつもそばにいなくても大丈夫だと子供がわかるようになるまで、泣かしっぱなしにしておくことも多い。親鳥がひな鳥を巣から追いやり、無理やり飛び方を覚えさせるのと似ている。社会化の目的は、独立した人格を育てることなのだ。アメリカでは、きちんと社会化された子供は、自分に対する自信と自尊心を持つようになる。
社会構造が急速な変化を遂げる一方で、それに伴う価値観(文化の一部)がその変化についていけない場合、この文化的遅滞は、社会化によってさらに長期化するということだ。社会化のプロセスのなかには、これまで何世代にもわたって繰り返されてきた「パターン」があり、このパターンをよく考えずに繰り返すと、時代遅れの文化が再生産されてしまうということだ。簡単な例として、日本の親が知らず知らずのうちに口にする、「男の子なんだから、もっとしっかりしなさい」というパターン化されたフレーズを挙げることができる。この反語は「女の子はしっかりしなくてもよい」であり、女性の労働参加が当然と考えられるようになった現代において、子供、特に女の子はマイナスの影響を与えることになる。
昨今では、「規制緩和」が日本の政治・経済コミュニティにおける流行語だが、規制緩和しなければならないという点においては誰もが同意しており、唯一の問題は、そうした変化をいつ、どのようにして行うかである。しかし、規制緩和とは、正確に言えば何を示しているのだろうか。一言でいえば、企業と産業全体が開かれたマーケットで競争しなければならないということだ。言い換えれば、社会的なネットワークがその価値を減じ、技術革新と競争力がその価値を高めるということである。
皮肉なことに、日本はいま自分自身の成功の犠牲になっている。自分たちが作り上げた社会構造は、日本という国を近代的、かつ成功を収めた社会に変えたが、低い出生率と経済的な豊かさは、子供たちから長期にわたるコミットメントや同調的な行動への興味をなくさせているのだ。さらに、日本を取り巻く世界があまりにも急激な変化を遂げたため、国内で信頼に足る製品を作っている会社でさえ、もはや成功は保証されない。こういった会社ですらも、これからは革新的な製品を作って世界中に売っていかなければならない。
一般的に人に対する信頼という面で、日本人とアメリカ人を比べると、アメリカ人は、ある人の信頼を推し量るために、どんな情報であれ使えるものは使おうとする。また、アメリカ人は、人を信頼しやすい一方で、とても用心深い。アメリカ人は他人が信頼できるかどうかを判断するために、評判や特定分野における知識、そして親類の意見などを情報として利用するが、日本人はこういった情報を真剣に扱わない傾向がある。アメリカ人は、他人を信頼する傾向が強い一方、用心深くなければならないと強く感じているということだ。その反面、日本人は、他人を信頼するわけでもなく、用心深いわけでもない。
アメリカの家族においても上下関係は存在する。ただし、それは性別や年齢によって与件的に決まってしまうものではなく、一つひとつの課題に関しての知識や経験などに基づいて決まるものである。社会学的用語で言えば、「普遍的(universal)」な基準ではなく「個別的(specific)」な基準に基づいて決まる。つまり、株式投資に関しては「お父さんが一番」かもしれないが、インターネットに関しては「娘が一番」かもしれない。だから、娘が上下関係の一番上にきて、それを他の家族が認めることもある、ということなのだ。何に関しても「お父さんが一番」である(あった)日本とは大きな違いがある。日本人が家族生活を通じて学ぶもう一つの価値に、集団を個人に優先させるということがある。日本で「家族のために我慢しなさい」というのは、昔からの定番ともいえるセリフである。
日本の社会は、これまで長い間、長期にわたる社会関係を奨励し、かつ、それに報いることを非常に重視してきた。日本社会にユニークな点というものがあるとすれば、この事実こそ、その中心をなすものであると思われるほどだ。日本社会は、他人との関係に新たに入っていこうとする場合、その集団に全面的に身を任せるものと思われ、その集団から抜けたり、所属を変えたりすることはないと思われている。だからこそ、日本において重要な社会的価値のなかには、忠誠、信頼感、同調性などが含まれている。
ある国の価値観が時代とともに変化する場合、次の3つの理由が考えられる。
- 「時代効果(period effect)」である
- 「年齢」に関連するものがある
- 年齢と時代の両方を組合せたものができる
本書を通じて主張してきたポイントは次の4つの大きな領域にまとめることができる。
- 伝統的な社会関係と社会的な義務を維持し、強化する
- 人々の行動の可視性を高いレベルに保つことで、社会に対する破壊的行為を最小限に抑える
- 強制に基づいた人間関係や社会的な義務を取り除く
- 機会と選択肢を増やす
以上が本書の概要である。日本が世界から見て、なぜ孤立化してきたのか、一番大きな原因は、本書の最初にも書かれているが、「これまで外界から日本をさえぎって身の安全を守ってきた木々は、いまとなっては邪魔になることのほうが多いのである」とあるように、冷戦構造が解け、各国の国境がなくなり、EUの誕生をみたように、グローバル化の市場の環境下において、いまだに日本は1940年(昭和15年)体制をいまだに引きずっているのである。すなわち、戦時統制経済のために総ての資源を集中させ、そこには、さまざまな業法や規制が設けられた。そして、官僚機構は既得権益を温存し、緒官庁は規制をもとに業界に圧力をかけ、大きな権限を行使する、といった体制がいまだに続いているのである。本書のなかにも書かれているが、例えば、規制緩和について「企業と産業全体が開かれたマーケットで競争しなければならない」とあるが、実際は規制でがんじがらめになっているのが実情である。現在検討が加えられている“特区”でも事前に官庁側から横槍が入るのである。これでは、技術革新を含めた真の競争力は育たない。結果、世界49ヶ国中、競争力が30位といった体たらくの状態になるのである。
野口悠紀雄氏が述べているように「日本経済に将来の展望を開く基本的道は、40年体制からの脱却である」真の構造改革とは、そういうものでなければならない。21世紀を迎えた今日、これまでのルールが非常に速いスピードで変っている。この現実を知ることだ。
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