為替ほど世界と日本のあらゆる事象、あらゆる情報と関係が深いものはない。経済は言うまでもないし、政治も社会的事件も、国際関係におけるさまざまな出来事も、すべてが為替市場に影響を及ぼす。直接に影響が及ばず、円高にも円安にも振れないときでさえ「市場には変化が見られない」という形で、実はある種の影響を与えているのだ。
為替相場は個々の市場参加者の極めて主観的な判断の集合によって決まっていく。ただ、「主観的」とは“主体的”という意味でもないし、“恣意的(勝手気まま)”という意味ではない。市場とは、商品の売り手と買い手がその価格と数量を決定すべく、相互に関係し合うところの仕組みである。ところが、為替市場ではモノではなくマネー、それも外国通貨が売買される。この場合、為替市場で扱う外国通貨は人為的な無形商品である。モノ市場で売買される商品のように、ある程度客観的な生産・流通コストが価格に反映されるわけではない。為替市場も売り手と買い手の均衡によって価格が決まるのには違いがないが、実体であるモノを離れたバーチャルな市場だから、いちじるしく流動的、相対的、主観的なものになりがちだ。そのことを、ケインズは「玄人筋の行う投資は、投票者が100枚の写真の中から最も容貌の美しい6人を選び、その選択が投票者全体の平均的な好みに最も近かった者に賞品が与えられる、という新聞投票に見立てることができよう。この場合、各投票者は彼自身が最も美しいと思う容貌を選ぶのではなく、他の投票者の好みに最も合うと思う容貌を選択しなければならず、しかも投票者のすべてが問題を同じ観点から眺めているのである」と言っている。
ケインズの言うこの有名な「美人投票」の例を別の言葉で言えば、一種のゲーム、それも「みんながどう思っているかということを、みんなで当てる」という情報ゲームと解釈することができる。つまり、市場に参加する多くのプレーヤーが「この状況はドル安だ」と思い込めば、少なくても短期的にはその方向に相場が一斉に動くということである。為替市場はいまや地球規模に広がり、いつ誰が参加しているか捕捉のしようもない。誰にもコントロールできない、最も自由な市場だ。政府が介入すれば、ある程度為替相場を支配できると言う人もいるが、世界中で取引される為替の量は1日150兆円を超え200兆円くらいだと言われる。したがって、為替当局と言えども市場を支配する力は全く持っていないのだ。
美人の条件もまた、人によって作られ、時代と共に変っていく。何よりも重要なことは、多くの人がこういう人が美人だと思うことであり、この意味で美人の基準は客観的なものではなく、主観的なものなのだ。少なくとも市場では、人と違う好みを貫けば損をすることになる。市場で勝つということ、あるいは、儲けるということは、多くの人の好みに乗る、あるいはそれを作り出すということなのだ。
為替市場が他人の判断に影響されやすく、不確実で未来の読めないものであることを、誰よりもよく知っている人物がいる。それは、ジョージ・ソロスである。ソロスは1930年にハンガリーの首都ブダベストに生まれ、青春期は受難の時代を過ごしている。第2次世界大戦中はナチスに追われ、終戦後はソ連軍の占領下での社会生活を強いられた。ソロスは、ハンガリーを脱出し、スイス経由でイギリスに行く。そして、さまざまなアルバイトをしながらロンドン大学スクール・オブ・エコノミクスに通う。ロンドン大学卒業後はしばらくイギリスの証券会社で働き、やがて1956年にアメリカに移住。その後、自ら設立したクォンタム・ファンドの運営を通じて莫大な資産を築きあげる。
これまでに出会った市場関係者の中で、ジョージ・ソロスと並ぶ傑出した人物を挙げるとすれば、クリントン政権時代に財務長官を務めたロバート・ルービンである。1938年ニューヨーク生まれで、ハーバード大学とエール大学の2つの大学を卒業。ニューヨークの法律事務所に勤め、後にゴールドマン・サックスに移り、債権の裁定取引(市場間の価格差を利用して利益を出す債権取引)を得意とするディーラーになっている。「物事はすべて確率論として見るべきで、絶対に正しいということはあり得ない」――というルービンの考え方は、ジョージ・ソロスと極めてよく似ている。「ルービンはよく他人の話を聞く。グッド・リスナーだ」、というのが共通した人物評価である。相手の話をよく聞く人には、周囲から自然に良い情報が入ってくると言う。
市場を読むときは、情報の取捨選択にポイントを置くことが大切である。為替取引は一種の情報ゲームである。情報をどれだけ持っているか、あるいは自分の持っている情報を新しい事態の出現によってどれだけ修正していくか、そしてそれを今度はどう発信していくか。現代のような高度情報社会では、為替市場に限らず政治や行政も含めて社会のあらゆる活動が情報ゲーム的な側面を持つ。その意味では戦争もまた、勝つか負けるか、命を賭けた究極の情報ゲームと言える。
為替相場を予測するための尺度はないのかと言えば、為替相場の基礎となるファンダメンタルズ(経済の基礎的条件)というものが厳然として存在するのも、また事実である。なかでも、(1)GDP成長率、(2)インフレ率と金利、(3)経常収支、(4)財政収支という4つの経済指標は最低限チェックしておく必要がある。これらの指標に大きな変動があれば、やがて為替相場に反映される。ただ、反映されるとしても、その時期や現れ方は単純ではない。それに一口にファンダメンタルズと言っても、その定義は必ずしも確定しているわけではない。4つのマクロ経済指標は非常に客観的だが、これに加えて「もうアジアはだめだ」とか、「これから日本よりも中国だ」といった主観的なエレメント、あるいはある種の情報戦争的なものも織り込まれて、実際の為替相場が決まっていくのが現実だ。
為替相場の常識の1つに、「Buy on rumors.Sell on facts.」(噂が出た段階で買い、事実がはっきりした時点では売り)というルールがあるというが、市場がいかに「新しい」情報を重視しているかということである。
外国産の牛肉を国産と偽って政府に買い取らせる。点検中に発見された原子力発電設備のキズを会社ぐるみで隠す。そうした事件が起きるたびに、会社の役員たちが記者会見で釈明するが、歯切れが悪く、話も一方的で、かえって消費者の心証を悪くしている。これは情報の相互依存性ということがまったく理解されていないということだ。不祥事がバレる、それを釈明する――この過程で、会社幹部は「企業」の内側にしか目がいっていないため、どうしても保身と自己弁護という印象しか与えない。しかし、情報には相互依存性がある。情報を発信するときは、受け手の側の状況を十分考慮して情報を流さなければ何の効果もない。消費者が疑心暗鬼になっている。そこで曖昧かつ一方的な釈明をする。ますます批判の声が上がる。慌ててまた釈明する。さらに信用を失う――といった悪循環が果てしなく続くことになる。情報の相互依存性は、為替市場においても大切な考え方だ。この場合、相互依存性は一回きりではなく、何度も繰り返されることが特徴である。つまり、こちらで発信した情報によって相手の行動パターンが変る。それがフィードバックされてこちらに返ってくる。こちらもまた判断を改める。このような複雑な相互依存性の中で「新しい」情報を発信するときは、よほど相手の反応を見極めておかないと、効果が半減してしまう。
規制のない開かれた為替市場では、1ドルはいくらだといった固定された為替レートが長期間続くことは絶対にない。為替レートは動かない方が良いと言う人がいるが、必ず動く。良い悪いの問題ではなく、絶えず動いているのが変動相場制の宿命だ。そのため輸出関連の製造業は多大な影響を受けることになる。この為替変動リスクを回避するために、企業がとっている対応策は、(1)製造コストの低減、(2)海外生産・海外調達の拡大、(3)ドル建て輸出契約の円建て化、または現地通貨建て契約への転換、(4)為替先物・オプション等を利用してのリスク・ヘッジ、などが一般的だ。よく「日本企業は円高に弱い」、あるいは「為替に弱い」と言われるが、これは日本の企業が本当にグローバルになっていないことを意味する。
最近、リップルウッド、サーベラス、ローンスター等の米国のファンドが日本の不良債権処理ビジネスに乗り出しているのを「外資の跳梁」、「ハゲタカ・ファンドに蹂躙される日本」、などと非難する声がある。しかし、これは明らかに間違っている。私に言わせれば、誰もが尻込みするようなリスクをあえて引き受ける「外資」、「ハゲタカ・ファンド」が積年の課題である不良債権処理を進めている。そのことにもっと積極的な意義を認めるべきなのだ。彼らは大変なリスクがあることを覚悟の上で、取得した不良債権のかなりの部分をうまく売り抜けば儲かると思い買っているのだろう。不良債権処理ビジネスは、本来なら、日本の銀行や証券会社がやるべきことである。ところが彼らは自分でリスクを取ろうとしない。誰かが手を挙げなければいつまでも不良債権は処理できないのに、積極的に手を挙げた外資だけを「ハゲタカ・ファンド」と悪玉扱いするのはフェアな議論とはいえない。
日本社会のメンタリティを考えるとき、しばしば「この国は社会主義か?」と疑いたくなることが少なくない。私は市場がすべてだという「市場原理主義」に対しては批判的である。それでも、これだけ市場経済化が進んでいるのに、政治家や官僚たちの市場に対する意識が必ずしも高くないのは、極めて不自然な感じがする。どういう政策を打つにしても、市場の反応がきわめて重要であるはずなのに、その意識がかなり欠落している。さらに問題なのは、市場というものがファンダメンタルズだけでなく、市場参加者たちの複雑な心理や思いが相互に影響し合い、ソロス流にいえば相互依存性によって決まっていくことを理解している者が極めて少ないことだ。
為替レートの正確な予測はできないにしても、為替相場が形成される過程に少しでも迫っていくためには、どんな情報に注目し、手に入れれば良いか。決して簡単に答えられる質問ではないが、いくつかのポイントがないこともない。為替市場を読むのに必要なのは、大きく分けて2つ、ローカルな情報とグローバルな情報である。グローバルな情報とは、いまアメリカやヨーロッパ、日本は動いているのか、各国経済のファンダメンタルズ、政治や社会の動きなどに関する中長期のトレンドと、もっと短期的な現在のファッションになっているものに関する情報である。ローカルな情報とは、東京市場なら東京で日本の機関投資家のA生保はいまどういう投資戦略で動いているのか、B信託やC年金基金はどうか、現在のファッションに乗換えたかどうか、といったその市場に即した情報である。
あらゆる理論がそうだが、理論というものはある情報量に基づいてモデル構築し、論理体系を作ったものである。情報量が増えれば、当然その理論も変えていかなければならない。宗教ではなく、社会科学の理論なのですから、新しい現実が現れて新しい情報があれば、理論はどんどん変えていくべきなのだ。日本では特に理論信仰の風潮が強いのは、明治以来、外国から理論を仕入れてきて、日本の現実を切りましょうという翻訳文化のスタイルが続いてきたからであろう。これがエリートコースを歩んだ官僚に浸透し、政策判断にまで影響を与えているため、政府の経済対策が効果を上げないというわけだ。
80年代まで日本経済を成長させてきた日本型システムは、90年代のグローバリゼーションに適応できずに衰退した。成功体験を捨てられず、構造改革を渋った結果、取り残されてしまったのだ。90年代は米国経済の1人勝ちとなったが、逆に市場主義的なものが膨らみすぎて粉飾決算が起きた。インセンティブとして高い報酬を払ってきたことが、やがて報酬自体を自己目的化するような倫理の逆転を招いたのである。そこまでいけばインセンティブではなく単なる貧欲である。それが会計基準などアメリカ的システムの根幹を揺るがすようになれば、アメリカの繁栄も足下から崩壊する可能性がある。洋の東西を問わず、システムは常に環境の変化によって変えていかなくてはならないのに、変えたくないというイナーシャ(慣性)が動く。かくして「成功が失敗の最大の原因」という法則が生まれるのである。
アルゼンチンの問題を考えてみると、アルゼンチンはカレンシーボード制という米ドルにペッグした厳格な固定相場制をとっていた。自国通貨のペソを対ドル平価1対1に保ち、中央銀行の外貨準備高が減れば、通貨の発行量は抑制される。このシステムは、80年代の悪夢のようなハイパーインフレを抑制するために考え出された。このカレンシーボード制は、それなりに90年代のアルゼンチン経済の安定化に寄与したが、経済的実力にそぐわない面があって貿易赤字が蓄積し、とうとう2001年にアルゼンチン危機が起きた。
国家による市場の統制に失敗したソビエトの経験を踏まえて、今後、経済・社会の主導権を握るべきは国家なのか、市場なのか、そのことを各国の歴史に沿って考えよう。
彼らは国家と市場の境界をどう定めるかについて、次の5つの判断基準を持つことを提言している。
- 成果を上げているか(数値で確認できるGDP成長率などの経済指標)
- 公正さが保たれているか(数値でできない倫理など)
- 国のアイデンティティを維持できるか(多国籍企業の国の伝統への配慮)
- 環境を保護できるか
- 人口動態問題を克服できるか
この5つの基準をどうクリアしているかによって、市場の信任の質が決まるというものであった。歴史的には「市場対国家」という見方が有効であることは認める。しかし20年前には当てはまった構図だが、90年代に入ってからは、市場対国家という対立概念だけで世界を見るのはもう古い。90年代はIT革命とともに世界的にグローバル化、市場化が進展した。もはや国家は市場をコントロールできる存在ではない。むしろ大きな存在ではあるが、現在では「国家も市場のプレーヤーの1人」になってきた。「管制高地」にいても市場を統制できなくなった以上、政府は新しく政策を実施する場合、市場との対話なくして成功はおぼつかないし、絶えず市場を通じて新しい世界経済について知ろうとしなければならない。そして、市場も万能ではない。今後、国家を相対化した市場がどこに向かうのか、市場をある意味でモニターするグローバルな超国家システムができていくのか。市場を知った国家や国際機関は市場をうまく補完できるし、また市場もその補完メカニズムなしにはうまく機能し続けることはできない。この意味で、世界経済の流れを長期的に俯瞰しながら市場と向かい合い、これから学んでいく。これが私の出発点であり帰着点でもあるのだ。
以上が本書の概要である。著者はご存知の通り、大蔵省に入省後、ミシガン大学で経済学博士号取得。97年〜99年財務官を務め、「ミスター円」の異名をとる。現在慶應義塾大学の教授である。著者のあとがきに、小泉総理に対し次のように述べている。「発想、政策形成のスタイルがあまりにも単線的で、異なった分析、別の角度からの意見にまったく聞く耳を持たないのは大変気になるし、また、今のような経済情勢の中で極めて危険だと言わざるを得ない。小泉政権の最大の問題は、彼が評論家風にわかりやすく問題を単純化できる人々を多く集め、現場を知り、かつ複眼で物事を重層的に見ることのできるアドバイザーをほとんど持っていないことにある。その結果起こっていることが、いわゆる“丸投げ”現象である。経済を知らない首相が、市場や金融を知らない評論家エコノミストに不良債権問題を丸投げし、竹中大臣はまた、これを監査法人コンサルタントに丸投げをする。どこにも、現実を複眼的に分析し、不良債権問題の銀行を超えた大きな拡がり、その重曹的複雑さを分析しつつ、戦略を立てられる参謀が見当たらない」、と述べている。私(北原)自身も小泉首相は典型的な経済音痴だと思っている。それでも、支持率が47%程度あるのは、国民はまだ「改革を進めてくれる人」として、信じているからだと思う。
どちらにしても、本書は、「為替がわかれば世界がわかる」の本題の通り、為替ほど世界と日本のあらゆる事象、あらゆる情報と関係が深いものはない。本書のなかに、「為替市場は、誰にもコントロールできない、最も自由な市場だ。政府が介入すればある程度為替相場を支配できると言う人もいるが、世界中で取引される為替の量は1日200兆円くらいだと言われる。したがって為替当局といえども市場を支配する力は全く持っていないのだ」。また、「市場を読むときは、情報の取捨選択にポイントを置くことが大切である。為替取引は一種の情報ゲームである。情報をどれだけ持っているのか、あるいは自分の持っている情報新しい事態の出現によってどれだけ修正していくか、そしてそれを今度はどう発信していくか」とある。そして彼は言う。「よく“日本企業は円高に弱い”、あるいは“為替に弱い”と言われる。これは日本の企業が本当にグローバルになっていないことを意味する。」と。すなわち、ケインズの言う、「みんながどう思っているかということを、みんなで当てる」という情報ゲームであるということである。一読をお勧めしたい。
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