本書は2002年4月から7月にかけて、東京大学先端科学技術研究センターにおいて行った学生対象の講義録である。全12回、合計20時間近くの速記録を整理し、可能な限りの脚注を付した。講義の内容に忠実に重複部分もかなり残したが、論理を分かり易くするための訂正や補充は丹念におこなった。また、東大での雰囲気を残すために質疑応答も1部は残している。
今、近代工業社会は終ろうとしている。そのことを示す徴候は既に多い。工業はアジア諸国に分散し、先進地域では比重が下がった。国家は希薄化して経済と文化はグローバル化しつつある。規格大量生産は縮小し、知恵の値打ちの創造が経済成長と企業利益の主要な源泉になった。そして何よりも労働力と生産手段の分離という近代の特色が逆転しつつある。知価創造的な仕事に携わる人々にとっては、真の生産手段とは本人の知識と経験と感覚であろう。知価社会においては、労働力と生産手段は限りなく一体化する方向にむかっている。
本書は1回ずつの講義録ごとにまとめられている。第1回目は自己紹介から始まっている。1975年に「油断!」を日本経済新聞社から出版。76年には「団塊の世代」を講談社から出版。78年10月に通産省を退職。それ以後小説を書くのと経済分析、経済評論を行うことを業としている。
◆第2回「90年以降の日本の厳しい現実と人類の文明の奇跡」
現在の日本は、大変困った状況になっている。日本の経済は戦後、一貫して上昇してきた。経済は成長を続け、人口は増えた。しかし、1990年を境として日本経済の基本的な動き方はガラリと変わった。90年と2001年もしくは2002年とを比べてみるとあらゆるものが悪化している。財政は猛烈に赤字が増えた。公債の累積残高は、2002年春において、670兆円ぐらいになっている。何が日本経済をこれほど急激に悪化させたのか。人類の文明が大きく変化したのに対して、日本が立ち遅れている、ということだと私は思うのだ。人類が農業を始めたのはおそらく1万年ぐらい前。土地を掘り返す、雑草を抜く、肥料を施すということが見出されるまでには数千年かかる。13世紀頃のイギリスやフランスの文献でも、小麦は蒔いた種の3倍から5倍しか収穫していない。農業開始以前を「始代」と呼んでいる。この始代における国家権力は何のために必要であったか。第一に防衛のためである。次に、防衛をするためには公平な負担が必要だ。公共財の典型的なものは防衛・安全である。国家権力の第二は「徴税」、国家権力の第3は「治安と司法」。この3つが国家権力である。
日本の農業は米作から始まったと見られている。縄文時代から弥生時代にかわるときに、いきなり米作からはじまるような形で、米作以前の農耕の跡は日本にはほとんどない。日本では15世紀の後半、応仁の乱(1467―77)あたりから猛烈な技術進歩があった。特に治水技術が進歩して、次々と新しい土地が開発された。16世紀になると独裁者の時代、強大な帝王の時代が生まれる。
◆第3回「安定から進歩へ・黒船のメッセージを受け入れた日本人」
耕作技術が進歩すると、物財が豊富になり、それへの関心が高まり、物をたくさん持ちたいという欲求が生まれる。物財が豊富になると、人口が急増する。そのような経緯をたどって古代国家が帝国になっていくわけだ。石炭の発見から、物の豊富な時代になった。石炭で高温が得られると金属生産が増える。銅が増えると通貨発行量が増えてまうから、経済流通が盛んになる。鉄が増えると道具が向上する。特に農耕の道具が向上するから、硬い土地も耕されて適地適作が進み、交易が盛んになる。
◆第4回「坂の上の雲・に向かっていった明治維新の苦悶」
日本が徳川時代を経ている間に、ヨーロッパでは科学や技術が進み、産業革命が起っていた。それで黒船は「日本人よ、きみたちは安定第一と思っているが、安定より今や進歩の方がいいよ。進歩こそ素晴らしいよ」と提言したのだ。チャンバラでは黒船に勝てない。黒船に勝って外国に蔑まれないためには、大砲や軍艦をたくさん買わなければいけない。馬関戦争が終った後で、幕府や各大名は長崎にいた外国商人のところに飛び込んで「大砲を売ってくれ。軍艦を買いたい」と言ったが、これは値段が高い。値段が高い上に数が多くないと戦力にならない。そこで分かったのは「ゼニが要る」ということである。外国に塞を踏まれないためにはカネがいる。カネを集めるためには近代産業を持たなければいけない。強兵になるためには富国が必要だ。富国になるためには産業だ、殖産興業だ。殖産のためには技術が要る。従って、文明開化だ。これが明治維新の人たちのたどった思考法だったのある。
日本は明治30年代で産業が発展し、近代工業化が進んだ。特に日清戦争で勝利して巨額の償金を得たことで、外貨にも余裕ができ、5産業の鉄道、郵便・電信、鉱山、海運、生糸や綿紡などの繊維産業に続いて造船や機械工業も生まれた。
資本蓄積、市場形成、人材育成の3条件が近代工業社会の必要条件である。日本はここで明治の官僚啓蒙時代から、ようやく資本主義、近代工業社会に一歩、足を踏み入れたというわけだ。ここで、皆さんに考えて欲しいのは、明治から昭和初期にかけて発展した日本が、なぜ戦争に向かったか、ということである。昭和の初めから戦争に至るまでの10数年間、どれほど多くの改革が行われたか。ずっと改革、改革と言い続けたのだ。昭和5年に大不況となり、何とか日本を改造せねばならないという気運の中で生まれた官僚たちの派閥だった。日本が近代工業社会をつくるために様々な苦労をし、当時としては総理大臣が暗殺されることも恐れず猛烈な改革をやったつもりだったのに、それが侵略戦争に繋がってしまった。
◆第5回「日本が選んだのは官僚統制と“昭和16年体制”」
日本は近代化とともに猛烈な勢いで人口が増えた。大体、天保時代から増えだすのだが、明治維新の頃には4000万人以下だった人口が急増して、昭和の初めには7000万人ぐらいになる。この人口をどうして養うか。これが明治から大正、昭和似掛けて日本における最大のポイントだった。
日本の普遍的近代文明は欧米の模倣だった。そこで日本は何かオリジナルをつくる必要にせまられた。しかし、日本のオリジナルは民族的、土着的だった。「神社」、「大和魂」、「八紘一宇」、「天皇崇拝」など、まったく普遍性のないものばかりを持ち出したわけだ。これが日本帝国主義の悲劇である。こうして、「昭和16年体制」ができた。日本が近代工業化を進める段階で、対外的には植民主義・帝国主義・軍備の拡大を、国内的には中央集権・統制経済・没個性教育をした。限られた資源を最も効率的な産業構造の形成に使おう。そのために、できるだけ重複投資、過当競争をやめて、官僚主導・業界協調体制をつくるべきだ。そして、それには中央集権的な指導が必要である。さらにそれが情報の集中と文化の統一を目指して「東京一極集中」になり、さらに学校制度においては、国民学校制度をつくる。この体制の下に、避けがたく日本は戦争への道を歩む。
◆第6回「“戦後”とは何か?――新しい正義と55年体制」
経済成長と結果の平等を実現するために登場したのが、官僚主導と業界協調という体制だった。そして、平和、安全を重んじる思想は厳しい議論を回避するようになる。80年代からは、ストもデモもテロも減りました。効率、平等、安全という戦後日本の正義は時代が進むにつれて次第に平等と安全の方向にシフトする。特に80年代以降は、効率(経済成長)はそれほど重要ではない。むしろ安全と平等の方が大事だということになる。
◆第7回「邁進する70年代の日本経済――高度成長と日本式経営」
世界的に資源余りの状況では、国土が狭くて資源のない国の方が有利だ。日本は国土が狭くて資源がなかったから世界中どこからでも、一番安い資源を買うことができた。これを「フリーハンドの買い手の有利さ」と言う。規格大量生産は「安価な供給」という面だけでなく、「愛着が湧かない」という消費者心理からも「使い捨て」を促進したわけである。ところが、近代工業社会が頂点を極める時がやって来る。それはおそらく1970年代だっただろう。
近代工業社会を特色づけた現象は4つである。
- 生産の大型化・大量化――その頂点としての規格大量生産
- 技術の進歩――とりわけ大型化・大量化・高速技術が進歩
- 国家の強大化――徴兵制、政府機能の拡大、「大きな政府」
- 消費の均質・大衆化――客観的価値の信奉
近代工業社会においては、「技術力と経済力の勝る国家は、必ず戦争でも強い。近代の科学技術が普遍的であり、どこでも通用する、もちろん軍事力においても同様である」というのが、近代文明優越論の最大の根拠だった。1980年代に世界の先進国が近代工業社会から知価社会に入るその時期に、日本だけまったく違う動きをした。日本ではここで官僚の力が強くなって、猛烈に近代工業社会を強化するのである。これが90年代から今日まで、12年間の日本の苦悶だ。
◆第8回「知価革命で何が起ったか」
1980年まで世界は近代工業社会が続いていた、と言えるだろう。しかし、70年代に頂点を迎えて以降は、規格大量生産型の近代工業社会は変質しはじめる。頂点へ上り詰めた様々な現象が、70年代にあらわれ、いよいよ80年代になると「知価革命現象」がはっきりとあらわれる。インターナショナルからグローバルに変わると、何が起ったか。1つはオイルダラーなど世界的に流動する資金が猛烈に増大したことだ。それに続いて人も動きだした。70年代から80年代にかけて、次第に難民・移民が増えた。このため80年代からは国境、国籍という意識が希薄になった。グローバル化によって物財とお金が動きだし、次に労働力が動きだした。そして文化のグローバル化も進んでいる。今、国際化が最も進んでいるのはおそらく、技術やデザインであろう。2つ目は発展途上国、とりわけアジアの工業化が進みだした。グローバリズムの結果として生まれたのがアジア、中国の工業化である。
2002年の統計はまだ出ていないので、2001年と1989年の12年間の違いを比べてみる。GDPは1989年に名目で417兆5000億円だった。2001年は502兆6000億円。この大半は96年までに行われ、97年以降は一進一退で、成長率はほとんどゼロである。次に「名目成長率」と「実質成長率」。1989年には名目成長率7.4%、実質成長率は4.9%だった。ところが2001年は名目成長率がマイナス2.5%、実質成長率はマイナス1.4%である。名目のマイナスが大きい。これがGDPデフレータ、前年の実質に換算するための物価指数が下がっているからである。1990年代の後半から日本経済は成長していないことを示している。今まで発行した国債は514兆円だが、地方債を加えた国公債残高は673兆円。2002年の暮れには697兆円になろうかというところである。EUの勧告によると、国債残高はGDPの60%以内であれば健全、それを超えたら多すぎるとされている。日本は89年には61%だったが、2001年は673兆円だから約130%。国債の発行は、将来の納税者から将来の国債所有者へ所得移転をしなければならない、ということなのである。
90年代の間に、治安が著しく悪化した。犯罪発生件数は167万件から273万件に増えている一方、「容疑者検挙率」は60.2%から57.4%に落ちている。また、日本は警備にお金のかかる国でだ。例えば、1998年のケルン・サミットの警備費は9億円だった。翌年の沖縄サミットは400億円ぐらいだ。
知価は、社会環境の変化によって価値そのものが変動する。そして、知価は予測困難。来年どんな技術が生まれるか、予測は非常に難しい。また、知価の特徴は、貯蔵がきかないことである。「知価革命」の進行に伴って、社会の組織概念が変わる。人間の共同体とは、ある目的、ある理由、ある原因で、そこに集まった人たちのコミュニティであり、コミュニケーションが行われる「場」である。知価社会では職縁社会が崩れて、次のコミュニティが必要になる。おそらく知価社会では「好縁社会」になるだろう。
近代工業社会は、「価格が変わっても価値は変わらない」と言う前提であるから、価値ある資産にまとわりつくように人間がくっついていた。ところが、知価社会になると価値が変動的である。設備や生産手段、つまり「財団」の価値も可変的だ。「財」よりも、むしろ、経営者の能力や技術開発力が重要になってくるわけである。
以上が本書の概要である。第8回までは、その回の講義ごとにまとめたが、第10回から最後の講義の第12回までは、同じ知価社会の内容なので分けずにまとめた。
本書に書かれているが、日本企業の交際費はGDP比当たりでアメリカの4倍、ドイツの6倍にも上る。日本は国土が狭いにもかかわらず、企業の旅費・出張費はアメリカよりも多いのだ。東京一極集中の対面情報社会だからである。今、世界は通信情報社会になりつつある。電話やインターネットで情報を交換する通信情報社会が世界中に広がっているのに、日本ではどうしても広がらない。
最後に学生との質疑応答がありますが、その答えのなかで堺屋氏曰く、「食糧自給率はまったく空想的な話だと思います。日本は江戸時代と同じ人口3000万人ぐらいまで減らないことには食糧の自給はできない国なんです。むしろ日本での食糧の安全供給は、健全な食糧の輸出生産地を確保することです」。
本書を読んでいただくとわかるが、日本は大きな問題をたくさん抱えている。例えば、「昭和16年体制」である。それをいまだに引きずっている。特に最近は官僚主導が強まっている。世界的には、近代工業社会は70年代がピークであり、その後後退しだす。そして1980年代に世界の先進国が近代工業社会から知価社会に入る。その時期に、日本だけはまったく違う動きをした。日本ではここで官僚の力が強くなり、猛烈に近代工業社会を強化するのだ。「失われた10年」もこの間違えから発生したと言えるだろう。
日本にはビジョンがないとよく言われるが、日本をどのような国にするかという研究がなされていない。現在でも場当たり的ですべてを部品的に処理するから、システムとしてつながってこないのだ。「特区」においても骨抜き特区であり、中国のように「特区」の実験が生かされ、今日の発展につながっていることを知らなければならない。
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