私はひょんなことから松井証券の社長になった。実力で上がり詰めたのではなく、妻の父が経営する会社を継いだだけの話である。後継ぎになる決心をしたとき、岳父は「つまんないよ」と私に言った。私は、「だったら、おもしろくしてやろう」と思った。
いまやリスクをとれば大成功する可能性がすべての人に開かれている。「ハイリスクハイリターン」という大原則にたち戻れる時代になってきたのである。
本書は、第1章:新しいことは、こうして考えろ!、第2章:こんな組織が21世紀に生き残る、第3章:人の上に立つ人間の度量、第4章:僭越ながら、日本に物申す!、の4章構成になっている。
私は魔球を投げるのが得意である。速球を投げるのが一番だと信じていた投手たち(=従来証券)は、私の右腕から繰り出される魔球の球筋を見て、「あれは単なる騙し球で、まともな投手が投げる球ではない」と言い張る。ところが、観客(=お客)は私の魔球を評価してくれ、「松井の出る試合はおもしろい」と言って、どっと押し寄せてくれた。万年最下位に近かった私のチーム、つまり松井証券はいま、間違いなくリーグ(=業界)に旋風を巻き起こしているのだ。魔球と普通のボールと何が違うのか。ビジネスでいう魔球は、ちょっと堅い表現をすると「ビジネスモデル」がポイントになる。ビジネスモデルというと、ものすごい戦略を立てることだと勘違いしている人が多いが、そうではない。自分たち中心でやってきたビジネスをお客中心という考え方に変えることではないか、と私は思っている。大企業は、これまでの時代のパラダイムに合っていたからこそ競争に勝ち、莫大な利益を稼いで大きくなってきた。しかし、そのパラダイムがいま変わりつつある。商売の基本は、お客から1円でも多くお金をもらうことだ。だから商人とお客は決して対等ではなく、お客の方が上に決まっている。
現在、個人投資家の株式売買代金は年間50兆円。そのうち25兆円がインターネット取引によるものだ。私自身がゴーサインを出し、それを半年後に撤回するという判断を迫られたことがある。プロフィットセンターとしてのコールセンター事業だ。パソコンとインターネットの普及、そして株式取引委託手数料の自由化が相まって、いずれインターネット取引が個人取引の主流になるだろうということはわかっていた。しかし、それが主流になるまでには、まだまだ時間がかかる。そこで、当面コールセンターに力を入れようと決定したのだ。それをパートを使って1000人体制に増強しようというのである。このコールセンター事業は当時、私の右腕だった常務と進めてきたものだ。しかし、私はすべてご破算にする決断をしたのである。社員が怒ったのも当然である。右腕だった常務も、多くの社員とともに松井証券を去っていった。
「給料をもらって働く」人と、「働いて給料をもらう」人はまったく違う。前者は会社に従属する奴隷に過ぎないが、後者は主体性を持った“個”だ。「働いて給料をもらう」という感覚を持てば、一つひとつの判断が、いわば死ぬか生きるかの分かれ道になる。「もし、ここで間違えたら俺は収入の道が断たれる」。それくらいの覚悟で行動しない限り、主体性の持てない奴隷には私は甘んじたくはない。
相場格言に、『人の行く裏に道あり花の山』というのがある。実は人間も一緒で、自分の弱いところをどんどん突いていくと、強みになってしまうのかもしれない。自分の弱みを隠して、強みを武器にしていくことが正攻法だと思っていたが、そうすると失敗するケースのほうが多いのではないだろうか。弱みをカバーして強みに変えられれば、もともとの強みの部分にも余裕ができる。多少の失敗にはめげずにやっていけるはずだ。『人の行く裏に道あり花の山』―自分が行こうとしている道の裏側に、実は本当に進むべき道が延びているのではないか―。
これからは個人個人が感性を磨き、他人の見方に左右されずに、自分の頭で考える訓練をしておかなければならない。物事は、まず疑ってかかることが大事で、自分自身で咀嚼し、解釈しなければならない。10人に聞いて9人がうなずくことは、だいたい間違えていると思った方がいい。
組織論にしても、マネジメント論にしても、人間の根元的な部分に反することは通用しない。いくら実力主義だといっても、ベテラン男性社員は10歳も若いヤツが上司になってゴリゴリやられたら、それはやっぱりたまらないだろうと思うのだ。それは日本だけではなく、アメリカだろうが中国だろうが同じだろう。
物事を考えるとき、私は社員に、「自分たちがまず最も損をすることを考えろ」といっている。「自分たちが損をするということは、お客が得をする、喜ぶということだ。すると、お客はうちに集まるから、結局はうちが得をするだろう。これが差別化戦略なんだ」と。つまり、“損して得取れ”という、いにしえからの商人の知恵を活かせといっているわけだ。
日本は活力を取り戻せない。むしろ問題を先送りするだけで、日本経済はじわじわ破滅に向かうことになるだろう。カネは必要なところには回らず、どうやっても生きる見込みのない企業に債権放棄などの形で、すさまじい勢いで注ぎ込まれている。もう、生命維持装置なくしては呼吸すらできない者を延命させ、生きる力のある者を殺す―。そんなことをしているような気がしてならない。国の経済が明らかに深刻な病気に陥っているのに、その手当てをしているのは“やぶ医者”――いや、医者ですらない素人かもしれない。
学校に限らず、日本の政策は“0”点の方に基準を置いてしまいがちだ。例外として扱うべきところに基準を置くわけだから、非効率極まりない。まず原理・原則を明らかにし、そこからあぶれたものは例外的なもの―“市場の失敗”と言われる―として対応する2段階方式をとらなければ、無駄なコストがかさむばかりだ。一方、悲しいことに、日本政府はさまざまなことに対して、明確な基準、原理・原則を持っていない。
バブル崩壊後の日本は長い長いトンネルを抜けて、新しい世界に入ろうとしているのだといわれる。いまだに出口が見えないだけで、いつかトンネルから出られるものだと考えられている。だが私は、このままでは未来永劫トンネルを出られないと思っている。なぜなら、まだトンネルに入っていないからだ。トンネルとは、競争の比喩だ。新しい時代を切り開くには、どうしてもいったんシビアな競争を経なければならない。そして、勝者と敗者を明確に区分しなければならない。
以上のような内容で綴っている。おわりでは、「日本はまだ不況を脱出する前の“トンネル”にも入っていないと思っている。あらゆる構造の変革を迫られている日本が再生するためには、倒産や失業の増加という暗い時代―トンネル―を通り抜ける必要がある。しかし、政府はトンネルを通らない迂回路を探してうろつき回っているだけで、再生への端緒にもついていないのだ。「いずれ、景気は回復する」、「日本がこのままダメになってしまうはずがない」といった、理由のない安心感が日本人の奥底にあり、それが不況を長引かせる大きな原因になっていると思うのだ」と述べている。著者の見方も外れているとは言い難い。確かに良くなる兆しがない。デフレからもなかなか脱却できない。官僚は既得権益を離そうとしない。国家政策においても、新国家モデルの構築といった発想はまったくない。流通・建設・農業分野には規制と補助金でがんじがらめになっている。これらを崩さないかぎり、日本に明かりはともらないと言える。日本の国の問題は別としても、名もない証券会社をIT時代を利用して松井証券の名をとどろかせた先見性とその手腕には脱帽である。
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