経済学的な見方は、ビジネスの現場で見られる現象を深く掘り下げていく上で大変有効である。経済学のロジックを理解した上でビジネスの現場を見ると、これまで見えなかったことが見えてくるはずだ。ビジネスの世界で見られる出来事を直感的に見るだけでなく、ロジックを駆使して考える習慣をつけてほしい。それが戦略的な思考であり、深読みできる見方なのだ。経済学は、ビジネスの問題だけを取り扱う学問ではない。政府や公的組織の活動から経済を分析するのが公共経済学や財政学、国境を越えた取引である貿易や国際投資の視点から経済を分析するのが国際経済学、金融市場の動きを分析するのが金融論である。そういった意味では、ビジネス・エコノミクスは企業や産業の現場で起きる事象を通じて経済を分析するものである。
本書は、序章:「ビジネス・エコノミクスとは」、第2章:「価格戦略と儲けのしくみ」、第3章:「価格からビジネスの構造が見える」、第4章:「市場メカニズムを活用する」、第5章:「エイジェンシーの理論」、第6章:「ビジネスは“ゲーム”だ」、第7章:「経済学で競争戦略を解剖する」、第8章:「デジタル革命は何を変えたか」、第9章:「ビジネスは世界に広がる」、終章:「ビジネス環境は変わり続ける」、の構成になっている。
『ビジネス・エコノミクス』というタイトルをつけた本書の目的は、ビジネスの現場で起こっているさまざまな現象を体系的にまとめ、その見方を提供することにある。ここでいう「ビジネス」とは、企業の活動、競争、戦略、ビジネスシステム、さらに産業と、非常に広く捉えてある。
多くの企業にとって、自社の製品にどのような価格をつけるのかということは重大な問題である。低価格にして大量に販売することを狙うのか、ある程度高い価格設定にして利幅を厚くするのか。吉野家の牛丼並盛は、2001年の夏までは一杯400円であった。しかし、ある日突然その牛丼を280円に下げると発表して世間をあっと言わせた。吉野家は、それまでも毎年恒例の価格引下げを行ってきた。400円の牛丼を、特定の期間に限り300円というような価格に引き下げたのだ。牛丼でも競合他社が非常に安い商品を出してきた。そこで恒例の300円への引き下げは安売りにならないということで、この年の安売り企画では、吉野家も牛丼の価格を250円まで下げた。しかしこの安売りで予想をはるかに超える客が殺到して、十分な対応ができずにパニックが起こった。そして需要が増えてもそれに対応できないような脆弱性が店の仕組みに潜んでいたのだ。時々ゆらぎを入れることによって、実は今まで見えなかった問題が表面化してくるのである。250円まで価格を下げたことに対する消費者の想像をはるかに超えた反応をみて、安部社長は価格引下げを決心する。そして、いくつかの店で異なった価格の実験を行った結果、どうも280円がよさそうだということになったという。吉野家の価格引下げの事例が面白いのは、単に客を増やすために行われたのではないということだ。価格引下げを通じて、企業の体勢を引き締めにかかったのだ。
需要が価格にどの程度敏感に反応するのかを、専門用語で需要の価格弾力性という。この需要の価格弾力性が、価格設定を考える上でカギとなる。需要の価格弾力性の大きさはその財の性質に依存している。必需品の需要の価格弾力性は一般的には小さい。これに対して奢侈品と言われるものは、需要の価格弾力性が大きい。企業が高い利益を上げるためには、自社の販売する財やサービスの価格弾力性ができるだけ低くなるように工夫することが重要となる。需要の価格弾力性が高い財を売っていると、日々、価格競争に巻き込まれて苦しむことになるからだ。需要の価格弾力性を小さくするためには、商品やサービスに特徴を持たせて、競争相手との違いを前面に出すことが必要となる。
通常の料金体系よりひねったものとして、「二部料金制度(トゥー・パート・タリィフ)」というものがある。遊園地の入園料がそうだ。遊園地に入る際に入場料を取られ、中に入ってまた乗り物に乗ったりするとき、さらに追加料金を払う。電話料金も二部料金の構造になっている。まず基本料金がかかり、それに加えて電話の利用度数によって追加的な料金が課せられる。携帯電話料金は、厳密には二部料金制にはなっていない。三部料金、あるいは四部料金というような構造になっている。つまり、いろいろなプランがあり。あまり多く利用しない人には基本料金が安い代わりに追加料金が高いプランがあり、ヘビーユーザーには基本料金は高いが追加料金が安いプランが用意されている。JR東日本は「Suica」という大変便利なカードを導入している。500万人以上の人が利用しているという事実は、このカードが多くの人に受け入れられていることを示している。将来的には携帯電話の中に組み込むことも可能になるだろう。
OTCの風邪薬の価格構造を見ると面白いことが分かる。薬を希望小売価格で売ったときに、小売のマージンとして何%残るのかを調査した。「ベンザエース(武田)6.0」というのは、ベンザエースを希望小売価格で売れば40%が小売店に入り、60%がメーカーや問屋に残るという意味である。「パブロン(大正)3.6」、「パブロン」が仮に1000円だとすると、小売店に640円入って、メーカーの大正には360円しか入らないことになる。実は、こうした価格の構造の後ろに企業の戦略が隠されているのだ。小売業にとっては、商品の価格そのもより、その商品を売ることでどれだけのマージンが落ちるのかが重要である。メーカーにとっては、マージンの大きさをどう設定するかが重要問題だ。ここで取り上げた薬の小売とメーカーの関係は、経済学でエイジェンシー関係と呼ばれるものである。
計画経済がうまく行かない理由は、正しい情報が上に上がっていかないから、そして現場が正しいインセンティブで動かないからだ。企業の運営にもこの教訓は役立つ。フリードリッヒ・フォン・ハイエクはノーベル賞を受賞したオーストリア生まれの経済学者・思想家で、アメリカのシカゴ大学で長く教鞭をとっていた。ハイエクの議論で秀逸なのは、「場の情報」という考え方を出した点にある。これは市場の機能を考えるときに非常に重要なものである。経済活動に必要な情報というのは、どこか1か所に集めることができるものではない。それぞれの現場にいる一人ひとりが持っている些細な情報、つまり場の情報が重要なのである。ビジネス・エコノミクスについて考える上で、ハイエクの市場観を理解することは大事だが、これとの関係でロナルド・コースの企業と市場についての考え方にも触れておく必要がある。コースもハイエクと同じく、ノーベル経済学賞を受賞し、シカゴ大学で教鞭をとっていた。コースは、市場と組織を対立概念として捉えるのではなく、相対的なものとして考えるべきであると指摘する。企業のような組織と市場の関係は、市場という海の中に浮かんだ組織という氷山のようなもので、どこまでが組織内で行われ、どこまでが市場に委ねられるのかは、その時々の経済環境などによって違ってくると考えればよいのだ。
「市場か組織か」という問題は、現実のビジネスの現場でも重要になる。コンビニエンスストアで競合するセブン−イレブンとローソンの違いにも、この問題が潜んでいる。ローソンはダイエー系列であった。ダイエーという会社は組織的な論理が強かったらしい。アメリカの大手小売業と同じように、物流から店舗経営まで、すべて自社内で行うような流通システムが念頭にあったようだ。ローソンの店舗は、設立当時はレギュラー・チェーンを指向していたと言われる。フランチャイズの形態をとる場合でも、ローソン本社が土地を探して店をつくり、オーナーを募集するケースが多かったという。そして物流システムにしても、自社の系列の会社が運営に関与していたようだ。それに対してセブン−イレブンは、できるだけ外部の業者を巻き込むという戦略を前面に出していた。「自分のところで何もかもやるよりは、日本にはいい問屋がいっぱいある。問屋をどんどん使えばいい」という立場だ。店舗にしても、その大半は酒販売など独立色の強い商人をフランチャイズの形で組織化していったのだ。セブン−イレブンとローソンでは、1店舗あたりの売上金額に大きな開きがある。セブン−イレブンは1日1店舗当たりの売上が約66万円であるが、ローソンは50万円前後である。この差は、セブン−イレブンの店舗のオーナーには、もともと酒販店や菓子店を経営していた人たちが自分の店、物件をもってセブン−イレブンの傘下に入り、フランチャイジーとなっているケースが多い。ローソンのオーナーは、脱サラした元サラリーマンや退職した学校の先生といった人が多い。セブン−イレブンは現場の人がもともと商売人なのである。セブン−イレブンの方が市場の力をフルに利用していると言ってよいのかもしれない。もっとも、ローソンも親会社がダイエーから三菱商事に代わり、現場でさまざまな変革に取り組んでいるようだ。
企業がどこまでの活動を自社の組織内で行い、どの部分を市場に委ねるのかは、企業のあり方を考える上で重要な問題である。セブン−イレブンの事例は、問屋やフランチャイジーという外の力を活用した事例であった。
外国為替市場というのは、ドルと円、ドルとユーロ、あるいはユーロとポンドなど、さまざまな通貨の取引をする場である。築地市場のように物理的に取引する場所があるわけではなく、金融機関の間を通信手段で結んで取引が行われている。この市場は世界各地にある。世界で一番早く開く市場は、ニュージーランドのウェリントンやオーストラリアのシドニーである。次いで東京、シンガポール、中東のバーレーン、ロンドン、ニューヨークといった順に、地球の自転に合わせて市場が開いていく。例えば、ドルをはじめとした主要な通貨は世界のすべての市場で取引されている。一つひとつの市場がバラバラに動いては困るだろう。しかし、裁定行為によってすべての市場の動きは見事に連動することになる。
<市場的メカニズムの特徴>
日本のタクシーの報酬体系はおおよそ3つのタイプに分類される。東京のタクシーは大手も中小も固定給部分があり、それに売上の一定割合が加算される。大手と中小の違いは、大手会社の方が、相対的に固定部分が大きいという点だ。もう1つの賃金体系として、リース契約がある。MKタクシーがそれだ。個人タクシーは誰かに雇われているわけではないが、賃金体系として考えればこれに近い。リース契約の下では、水揚げは基本的に全部タクシーの運転手に入るが、自動車・制服・無線などのサポートを会社が行うので、その費用としてある一定額を会社に毎月払う。賃金体系の違いは、タクシー会社の狙いの違いを反映しているのだろうか。大手のタクシー会社にとっては、チケットで利用する大口顧客の存在が重要である。1人の運転手の行為でも、無謀な運転で顧客を怒らせれば、その結果大口顧客を失うことになりかねない。水揚げに応じて運転手の収入が変動する変動収入部分をあまり大きくすると、水揚げを増やそうと乱暴な運転をすることになりかねない。そこで、固定給を多めにして変動給の部分を少なくしている。これに対して中小のタクシー会社にとっては、一人ひとりの運転手の水揚げがすべてだ。そこで運転手が水揚げを増やす誘因(インセンティブ)を高めるため、変動給部分を上げていると考えられる。また固定給部分を下げることで、会社としては水揚げの変動のリスクを運転手に転嫁することが可能になる。
エイジェンシー関係のカギになる概念が2つある。「モラルハザード(moral hazard)と「逆選択(adverse selection)」だ。この2つの概念は、いずれも保険業界から出てきた言葉だが、エイジェンシー関係全般に広く利用できる概念である。これらの概念について理解することが重要である。2つの概念について簡単にまとめると次のようになる。
- モラルハザード:相手の仕事に対する熱心さや誠実さによって影響を受ける状況。相手の行動を監視できないので、必ずしも好ましい関係が形成できない。隠れた行為(hidden action)の問題と呼ばれる。
- 逆選択:相手の提供する財・サービスや相手の能力・特性などが分からないため、結果的に品質の悪いものをつかまされたり、あるいはそうしたことを恐れるあまり効果的な取引ができない状況。俗に、隠れた情報(hidden information)の問題と呼ばれる。
エイジェンシー関係の事例
*弁護士と依頼人、*経営者と株主、*労働者と管理者、*借り入れ企業と銀行、*小作人と地主、*納税者と政府、*政治家と有権者
経済学の世界では、売り手と買い手の情報に違いが生じる商品を「レモン」という。外側は良く見えるが中身が悪いものを英語でレモンと言う。特に質の悪い自動車を指してそうした表現を使うようだ。このような財やサービスの取引は買い手がその品質が分からないために問題が多いのだ。
ペイオフの制度で、1000万円以上は保護できないようにすることは、考えようによっては私たちの預金をより安全なものにすることにつながる。ペイオフを凍結して、預金を全額保護してくれると、結局、危ない銀行がいつまでも残ってしまう。
イオングループの名誉会長である岡田卓也氏がよく引き合いに出す言い回しに、「大きな街には(セブン−イレブンのような)小さな店を、小さな街には(ウォルマートのような)大きな店を」、そして「イオンのような大型店は狸しか出ないようなところに出店した方がうまくいくのだ」、というのがある。東京近郊のような大都市圏には多くの潜在顧客がいる。そのようなところに中途半端に大きな店をつくっても、近くにもっと大きな店をつくられてしまっては元も子もない。大きな商圏では、コンビニエンスストアのような小さな店の方が生き残りやすい。しかし、人口10万人かそれ以下の小さな街であれば、その人口に十分に見合った大きな店をつくってしまえば、後から他の大型店は参入しにくいものだ。既存の店がその街の人口を反映した大きな店であるので、参入しようとするライバル企業がその店よりも大きな店をつくろうとすれば、仮に既存店舗に勝てても、店が大きすぎて小さな規模の街では採算が合わなくなってしまう。
- ゲームが繰り返し行われると、裏切ったことに対する将来の報復が怖く、協調的な行動を守る誘因が発生する。
- 人材派遣などでエイジェントが間に入るのは、雇用側と労働者側の間に入ったエイジェントが両者と長期的な関係を持っているため、両者の裏切りをチェックできるからだ。
- マーケットが成長している産業や企業の方が、長期継続的な関係を維持しやすい。
- エクセレント・カンパニーと呼ばれる企業では、アメリカでも継続的な雇用関係を重視する傾向がある。
- 競争相手に先んじて動くことがゲームを有利に進めることにつながる。それがコミットメントということだ。
- 自分を追い込むことがコミットメントになる。
- その覚悟を相手に見せることで相手の戦意を喪失させる。
- 権限のない人を交渉人に立てる方が交渉が有利に進むこともある。
- 強くでることだけが競争の勝利につながるとは限らない。弱者は弱者なりの生き残り策がある。
- 巧妙な株式の買い付け(二段階ビッド=公開買い付け)を利用すれば市場価格よりも安く企業を買収できる。
- 投資家は他の投資家の動きを見ながらゲーム理論的な思考をする。
- セカンド・プライス・オークション(出席者は紙に価格を記入する。そして紙を集めて、一番高い値を書いた人が権利を確保する。ただし、彼は自分の出した価格で買う必要はない。彼に次ぐ2番目の価格を支払えばよいのだ)では、入札者はすべて自分の評価を正直に表明する誘因を持つ。
私はかねてより、企業が激しい競争の中で生き残るためにできることは3つしかないと考えている。第1番目は競争相手を抹殺するということ。競争相手が消滅するように画策することである。M&Aなど。第2番目は、もっと頑張る(being better)ことである。同質競争を続けること。第3番目は他の企業と違ったことをやる(being different)ことだ。ポジショニングをとって差別化する。この3つ以外に、厳しい環境の中で企業が生き残る方法はないと考える。
競争が激しくなるということは、競争相手が増えるということと同時に、潜在的な市場も大きくなるということだ。だからポジショニングが重要なのだ。
情報通信の分野の変化には目覚しいものがある。インターネットが本格的に普及してからまだ10年しか経っていない。しかし、インターネットはすでにブロードバンドの時代に入っており、データのやりとりだけでなく、IP電話や映像のやり取りなど、その利用は拡大を続けている。これは電話ビジネスなどの伝統的な情報通信産業の姿を変えるだけでなく、放送と情報の融合をもたらすなど、異業種の再編の原動力にもなろうとしている。
デジタル革命とは多くの情報をデジタル化し、(1)それをコンピュータで解析することができ、(2)ネットワークでやり取りできるようにすることだ。
・デジタル革命の新たなキーワードはユビキタス。
・いつでも、どこでも、誰にでもつながっているので、多様な利用法が考えられる。
・ネットと補完的な機能を持つビジネスは、ネットの利用拡大でチャンスが広がる。
・代替的な機能のビジネスは、ネットの拡大でその機能の見直しが必要となる。
本書では、経済学という理論を駆使して、ビジネスの現場のさまざまな現象について分析してきた。社会現象をできるだけ論理的に分析するというのが経済学の果たすべき重要な役割であるが、ビジネスの現場で起きていることを理解する上でも、こうした論理的思考が重要であるのは言うまでもないだろう。
<長期化する構造調子>
* 金融:間接金融中心から直接金融中心へ
* 雇用:終身雇用・年功賃金から労働の流動化へ
* 不動産:土地神話から不動産の流動化へ
* 産業:オーバーカンパニーの是正
* 企業:同質競争から差別化へ
以上が本書の概要である。著者の伊藤元重氏は、東京大学院経済学研究科教授であり、テレビ東京「ワールド・ビジネスサテライト」のコメンテーターとしても活躍している。本書は事例をふんだんに盛り込んで解説をしているので非常に読みやすく、理解しやすい。また、各章ごとにpoint!としてまとめの解説を付けているので、一層頭の整理になる。
著者がまえがきで述べている、「経済学のロジックを理解した上でビジネスの現場を見ると、これまで見えなかったことが見えてくるはずだ」の言葉通りに、いままでぼんやりと捉えていたことが、「なるほど!」といった具合に見えてくる。ローソンとセブン−イレブンの違いなども、一般的に私たちはセブン−イレブンの記事がいろいろな経済誌に記載され、鈴木社長のコメントが多く出され、売上高はローソンの1兆2.940億円に対し、セブン−イレブンは2兆3.560億円、1日の1店舗当たりの売上高の差はセブン−イレブンの方が、ローソンより、約20万円も多いのである。1人勝ちのイメージが強く、本書で示されているように、「市場か組織か」という問題提起による違いを読むと、いままで見えなかったことが見えてくることになる。すなわち、市場主義のセブン−イレブンと組織主導主義のローソンとの差が浮き彫りにされてくる。頭を整理するうえでも大変に役に立つ本書である。
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