著者が「あとがき」で述べていますが、本書は著者が言うこと、書くことの根拠を、自分の人生から掘り出そうとした試みです。講演や著書には、根拠が明瞭なことばかり書いているわけではありません。その根拠を、できるだけ自分で探してみようとしました。
本書は第1章:いずれ死ぬ、第2章:身を鴻毛の軽きに置いて、第3章:お勤めご苦労さん、第4章:平常心、第5章:変わらないもの、第6章:学問とは方法である、第7章:主義者たち、第8章:日本人は諸行無常、第9章:努力・辛抱・根性、第10章:若いころ、第11章:現代を生きる、の構成になっています。
飛行機が揺れると怖くなります。「墜ちたらどうしよう」、そう心配するわけです。それは実は「死ぬこと」が怖いわけじゃない。そこまでの途中が怖いわけです。たいていの人は、自分が乗っている飛行機が墜ちた経験がありませんからね。墜落して、本当に死んでしまったら、怖いもクソもない。病気も同じです。ガンでほとんど死にそうという人が、死ぬ心配をすることは、まずあり得ません。苦しくてしょうがないから、「先生、何とかしてくれませんか」と医者に言ったりしています。
死は人生の大事件です。恋愛以上の大事件かもしれない。それなら、死ぬときの自分の気持ちがわかるかと言えば、わかるわけがありませんよね。「じゃあ、どう考えればいいんだ」。死ぬのは私じゃない別の人、そう思えばいいわけです。だって恋愛中の私は、いつもの私じゃないでしょ。死にそうな私だって、それと同じです。死ぬことを考えているのは、いまの元気な私です。でも「現に死にそうな私」は、「いまの元気な私」じゃない。そんなこと、当たり前です。だからその2人は別人なんですよ。
歳をとるにつれて、私は運ということを考えるようになりました。ここまで生きてくると、運ということをしみじみ考えます。そもそも、ここまで生き延びてきたこと自体、「運がよかった」んでしょうが。同年生まれで、既に死んだ人もたくさんいますからね。美空ひばり、江利チエミ、小林千登勢。65歳で私の本(『バカの壁』)がバカ売れしましたけど、64歳で死んでたら、そういう目にはあってません。こんな歳になってから、妙なことが起こるもんだと思います。これも運のうちじゃないですか。
山本七平氏は「死を前提にした人間ほど、周囲にとってたちが悪いものはない。説得なんて通じないからだ」、という趣旨のことを書いています。そういう人が何かを言い出すと、頑として譲らない。無理が通ってしまうんですね。ビン・ラディンもそうした思想を“利用”しているように見える。自爆テロの親分なんですから。でも自分は自爆していない。それをブッシュが「卑怯者だ」と言ったわけです。
戦後の日本は共同体をどんどん消していきました。共同体のためというのは、身内のためというのと根本的には同じです。ということは逆に、身内のためでなけりゃ、やらないということにも通じます。だから、伝統的な犠牲的精神は消えた。そう思います。そうして現世肯定思想だけが生き残ったために、政治家も官僚も、自分個人の利害で動く。そう見えるようになりました。共同体を消すことは、近代化、国際化、いわゆる進歩と呼ばれるものも必然です。19世紀の西欧に発する、西欧近代個人主義の帰結といってもいい。それがある意味で間違っているということを『バカの壁』でも述べました。
私が言いたいことは、日本社会の中では、共同体は確かに崩壊しているということです。共同体のメンバーは、基本的には「平等」なのですから。それが日本の伝統です。それを、誰かが「崩そう」としたわけじゃない。でも「結果として崩れてきた」ことは間違いない。
日本の英語教育では、「あれだけ英語教育をしているのに日本人はしゃべれないじゃないか。英語教育が間違っているんだ」、従来の英語教育批判派は、必ずそう言います。私の意見を聞いていないですよ、きっと。確かにしゃべるためには、しゃべる訓練が要ります。しかしそれは読み書きとは違うんです。本当に英語をマスターしようと思うなら、両方が必要なんですよ。いままでの教育が悪いんじゃないんです。いままでの教育は読み書きの教育なんですから。日本語は読み書きが中心だからです。脳を調べると、わかります。英語教育を本気で考えるなら、脳のことを知らなけりゃならない。結論はそういうことになります。
NHKの「プロジェクトX」という番組があります。車だの計算機だのを、技術者が必死で作る。その人たちを支えたのは、「変わらないもの」を追求する気持ちでした。そう私は思います。思えば、私自身がそうでした。「医学部を出て、なぜ解剖をやったんですか?」、これまでにそう訊かれることがよくありました。適当に答えてたんですが、いま思うと、これでしたよ。解剖くらい「確実な」学問はない。そう思ったんです。解剖のどこが確実か。古い学問で、いまさら変わりようがないじゃないか、ということもあるでしょう。でも、それだけではありません。解剖の面白いところは、結果が出たら特にどうしようもないというところです。仮にお腹を開いて胃袋が二つあったとしても、「あったものはしょうがないだろう」と言えるんです。もう一つあります。解剖では、すべての結果が自分に戻ってくるということです。私がやっていた系統解剖では、遺体はホルマリン処理がしてあります。ですからそのままで何年でも保ちます。そうした遺体を、例えば2ヶ月かけて解剖するわけです。今日解剖して、その日の分を済ませて、遺体を布でくるんで帰ります。次の日に来て、布を開けてみると、昨日のとおりです。夜の間に解剖が進んでいるということもないし、傷が治ってきたということもない。当たり前ですわ。
でも、はじめは完全な身体だったわけです。1ヶ月して改めて我に返ると、なんだか相手はひどいことになっています。腕は取れているし、足も取れている。なぜそうなったかと言うなら、やったのは私です。ともあれ、こうして解剖学というものは、すべての責任が自分に戻ってくるという意味でも、極めて「確実」なものです。
私は東京大学を退官してから現在まで、北里大学でお世話になっています。もちろん、この大学は北里柴三郎を記念して作られています。北里柴三郎は熊本県の田舎の出身です。そういう人が、当時のベルリンに出かけて、いまで言えばノーベル賞級の仕事をしているのです。野口英世、志賀潔などの医学者の名前を知る人は多いでしょう。野口もまた、福島県の田舎の出身です。それがどうして世界的な業績をあげたのか。私が経験したと同じように、世間の常識が180度変化した時代です。そういう時代を若いとき経過すれば、「変わらないもの」、「確実なもの」に対する感受性が芽生えるはずです。北里柴三郎の例でいうなら、熊本の田舎であろうが、ベルリンだろうが、黴菌には変わりはなかろう、ということになります。そういうものをひたすら追う気持ち、それが私はよくわかるような気がするのです。
日本は戦争に負けたんですが、私が個人的に負けたわけじゃないんです。じゃあ、どう考えればいいのか。「物量に負けた」ことに「対抗する」なら、「物量なしで、業績をあげればいい」わけです。ということは、研究には「積極的に」お金を遣わないということになります。バカみたいですが、それで頑張ったんだと思います。そんなこと、実は恥ずかしくて言いにくいですが、正直なところ、そうだと思いますよ。だから教授になってから、若い人たちが「研究費がなくて研究できない」というと、「仮にいまお金があって、おかげで研究ができたとする。それはお金がした仕事か、お前がした仕事か」。そんなことを言ってました。でもそれで半分は正しいと、まだ思っているんですよ。そういうことを「言える」ということ自体、私が考えていたということなんです。
普通の女性の顔写真を100人分集めて、コンピュータで重ね合わせます。そうすると、むろんいささかピンボケ顔になりますが、それでも美人になるんです。これって、なかなか難しいでしょ。だって、フツーの顔を100重ねたって、フツーの顔にしかなりようがないじゃないですか。普通はそう思う。でも、実際はそうじゃないんですよ。なんと美人になっちゃうんですよ、これが。何でだろうって考えましたな。フツーの顔を重ねていくと、どんどんフツーになるのではなくて、どんどん「特別な」顔になっていく。ネッ、ここでわかるような気がしませんか。フツーの考えを「重ねて」いくと、だんだん「ノーベル賞級の考え」になっていくんですよ。つまりどこに誤解があるかというと、美人とは、稀な資質だと考えるところにある。そうじゃなくて、「あまりにも当たり前」のことが、本質的なことなんですよ。当たり前の極限が美人なんです。同様にして、当たり前の極限がノーベル賞なんですよ。
ポル・ポト派の大虐殺を覚えておられますか。クメール人、つまりカンボジア人たちは、はじめはベトナムのシンパを排除するつもりだったんです。歴史的にはベトナムにやられっぱなしですからね。サイゴン、いまのホーチミン市は歴史上はクメール人の町だったんですからね。それがそのうち、犠牲者の数が数百万人という自分たちの仲間の大虐殺になっていきます。大学紛争で、いわば高揚した新左翼運動もまた、やがてさまざまなテロ事件、さらには赤軍派の内ゲバ殺人を引き起こしていくようになります。そうなってからではもう遅いのです。そういう極端なことをするのは、「変な」人たちだ。あいつらは別だよ。日常のフツーの生活しか経験したことのない人は、そう思うことが多いと思います。それは違います。ごくフツーの人だって、いや、むしろ「ごくフツーの人」だからこそ、1億玉砕とか、ナチとか、ポル・ポト派のようになるんですよ。自分がごくフツーだと思っているということは、実は「自分は変なことはしない」という確信を、暗黙のうちに持っているということですからね。そのフツーの自分が「変だ」と思うことが、世の中に起こっている。それなら世の中がおよそ変であるのに違いない。そういう理屈になります。そうなると、その「変」を根こそぎ排除しようとするんですよ。そこでまず逆に成り立たなくなるのが、なんでもないフツーのことです。だって、フツーの人が変になるんだから、フツーがどこにもなくなる。フツーにしていることが「変」になるんですよ。それが「この非常時に」という表現になるんです。
体を使う、つまり筋肉を動かすというのは、脳からの出力です。感覚は入力ですから、脳の仕事の半分は、体を動かすことだと言っていいです。それなら脳の訓練とは、半分は体を動かす訓練じゃないですか。じゃあ、学校で体育に半分の重みを与えてますか。国語の朗読だって体の訓練ですよ。声を出さなきゃ、朗読にはなりません。声を出すには筋肉を使わなけりゃなりません。それを上手にやろうと思うなら、それこそ発声に関する動きを、素過程から訓練する必要があります。だから「声に出して読みたい日本語」なんでしょ。著者の斉藤孝さんは、もともと武道家ですよ、国語の先生じゃない。国語の半分は体育なんです。
ともあれ、本当に「生きよう」と思うなら、日本の世間に属している限り「自分が生きる」、「世間で生きる」、そのどちらか一方というわけにはいかないということです。日本人は「生きてない」と言われたって、とりあえず「世間で生きてる」んですから。じゃあ、あとは国際的な意味でも生きればいい。大げさにいえば、「生きてない」ことを世界中から批判される。でも、ある面で日本ほど上手にやっている国はない。みんなが「世間で生きている」からでしょうが。それをいまの日本人は言わな過ぎます。なぜ言わないって知らないんでしょうね。そう思ってない。世間を意識化していない、だから当たり前です。世間で生きようが、個人で生きようが、自分の生き方を根本的に肯定できないのなら、生きてきた意味はないということです。その点では、私は徹底した楽観主義者です。そうでなけりゃ、努力も辛抱もしないし、根性なんて要りませんからね。
以上が本書の概要です。著者は医者で専門は解剖学です。著書は多数あります。2003年に出版した『バカの壁』は超ベストセラーで、2004年の高額所得番付にのるほどでした。読んでいただいて分かると思いますが、本書の目的が著者の書くこと、言うことの根拠を、できるだけ自分で探すことにあります。すなわち、養老氏の人生哲学です。それだけに、文章も「なんですよ」、「んでしょうが」、「いるんだ」といった文が多く出てくる。著者独自の哲学だけに、ものの見方、考え方で共鳴するところ、ハッと気づかせられるところもあり、非常に参考になる点が多いです。
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