この小冊は、私が50余年の人生を通じて体験してきたことを、編集部の強い要望に応えて書いた・・・というよりは、語りおろしたものです。まず、昭和55年の初夏に、編集者と、私の若い友人佐藤隆介とともに九州・由布院の宿にこもって大半を語り終え、その後、佐藤君が筆記した原稿に手を入れ、さらに秋のフランス取材旅行で得た材料を加えて、この1冊が出来上がりました。
男というものが、どのように生きていくかという問題は、結局その人が生きている時代そのものと切っても切れない関わりを持っています。この本の中で私が語っていることは、かつては「男の常識」とされていたことばかりです。しかし、それは所詮、私の時代の常識であり、現代の男達にはおそらく実行不可能でありましょう。時代と社会がそれほど変わってしまっているということです。
本書は、1:「食べる」、2:「住む」、3:「装う」、4:「つきあう」、5:「生きる」、の5部構成になっています。
食べもの屋というものは、まあどんな店でもそうだけど、店構えを見ればだいたいわかっちゃう。まあ、中へ入った場合、まず便所がきれいな店じゃなかったら駄目だね。宿屋でもそうですよね。結局、「神経の回りかた」ということでしょう。他のどんな仕事でも同じだけど、そういうところまで神経が回っていないと、出すものだって当然、神経が回ってこないですよ。
お椀のものが来たらすぐそいつは食べちまうことだね。いい料理屋の場合はもう料理人が泣いちゃうわけですよ。熱いものはすぐ食べなきゃ。ともかく、名の通ったいい料理屋に行くときには何よりもまず、「腹をすかして行く…」ということが大事だし、それが料理屋に対しても礼儀なんだよ。お刺身を食べるときに、たいていの人はわさびを取ってお醤油で溶いちゃうだろう。あれはおかしい。刺身の上にわさびをちょっと乗せて、それにお醤油をちょっとつけてたべればいいんだ。
東京の蕎麦でね、噛むのはいいけれど、クチャクチャ噛まないでさ、二口三口だけ噛んで、それで喉へ入れちゃわなきゃ。クチャクチャ噛んだら、事実うまくねえんだよ。それでね、蕎麦というものは本当に蕎麦がうまければ、何も薬味というものはいらないんだけれども、唐辛子をかけるときでも、だいたい唐辛子というものはおつゆの中に入れちゃう。あれはおかしい。唐辛子をかけたかったら、そばそのものの上に、食べる前に少しずつ振っておくんだよ。それでなかったらもう、唐辛子の香りなんか消えちゃうじゃないか。
てんぷら屋に行くときは腹をすかして行って、親の敵にでも会ったように揚げるそばからかぶりつくようにして食べていかなきゃ、てんぷら屋のおやじは喜ばないんだよ。てんぷら屋だったら、まあ、酒は2本までが限度だね。てんぷら屋に行ってビールをがぶがぶ飲んだり、ことにウイスキーをがぶがぶ飲んだりしてたら、もう肝心のてんぷらの味が落ちちゃってね。それから鮨屋でもやっぱり2本が限度ですよ。
すきやきは、はじめは何も入れない、肉だけ。割下が煮立ってなくなったら、また注ぎ足して、ほとんど肉を動かさないように自分で取って裏返すくらいにしてパッと食べれば、割下も濁らないわけです。そして肉だって本当にうまいわけ。そのうちにだんだん肉のエキスが鍋に混じってくる。また注ぎ足して、具合がよくなってきたら野菜を入れるんだけども、ぼくは野菜はネギだけです。
男にとって「家をつくる」ということは大事なことだ、やっぱり。この問題は収支の感覚でもって全部整理しておかなきゃいけないんだよ。それが基本なの。だから、まずどんな場合でも、地図を見ればいいのだ。世界地図を見て、自分の住んでいる国の小ささを先ず考えて、それを基本に家のことを考えればいいんだよ。そうすると当然、この狭い国土に建てる家となると、どういう家でなきゃならないかわかるでしょう。ぼくの家は、ドアというものは1つしかないんだ。1階便所のドアだけ。あとは全部引き戸。狭い区画の中でもって、どうにか住めるということなんだよ。
自分のおしゃれをする、身だしなみを整えるということは、鏡を見て、本当に他人の眼でもって自分の顔だの身体だのを観察して、「ああ、自分はこういう顔なんだ、こういう身体なんだ、これだったら何がいいんだ」ということを客観的に判断できるようになることが、やはりおしゃれの真髄なんだ。そういうことは何も訓練なしで、ただやっているだけじゃだめだね。やっぱり映画を観るとか、小説を読むとか、いろいろなものを若いうちに摂取していれば、自然にそういう感覚というのは芽生えてくるわけですよ。
気分転換がうまくできない人は仕事も小さくなってくるし、身体もこわすことになりがちだね。会社でも嫌なことばかりに神経を病むような人は、やっぱり身体を壊してくると思うんだよ。さりとて神経が太いばかりだったら、何事も駄目なんだよ。太いばかりだとばかになっちゃう。隅から隅までよく回る、細かい神経と同時に、それをすぐ転換できて、そういうことを忘れる太い神経も持っていないとね。両方併せて持っていないと、人間は駄目です。とにかく大学を終わって社会に出るまでの若い時代に、いろんなものに首を突っ込んでおくことですよ。そうすれば、気分転換のケースをたくさん持つことになるんだよ。若いうちからいろいろなものを貪欲に吸収しようとしている人ほど、世の中へ出てから気分転換をすることがうまくなるわけ。
男の顔をいい顔に変えていくことが、男をみがくことなんだよ。人間とか人生とかの味わいというものは、理屈では決められない中間色にあるんだ。つまり白と黒の間のとりなしに。そのもっとも肝心な部分をそっくり捨てちゃて、白か黒かだけですべてを決めてしまう時代だからね、いまは。こういう時代では、男の意地、夢、ロマンというものは確かに見つけにくいでしよう。
サービス料がある場合はチップはいらないというのは、これは理屈です。だけどね、こういうことを言うとまた誤解されるかもわからないが、形に出さなきゃわからないんだよ、気持ちというのは。いや、この運転手さん、よくやってくれた、「ありがとう」と言ってね、ただ「ありがとう」だけじゃだめなんだよ。まあ、駄目ということはないけれども、ただ「ありがとう」なんて言うのは誰だって安売りできるんだから、言葉だけは。
公衆電話にいて、人が待っているのもかまわず延々とやっているような女は駄目なんですよ。そのときだね、「あ、いま後ろへ人が来ましたから、これで失礼をいたします」とか、「公衆電話ですので、また後でおかけします」とかいうような女だったら、まず間違いない。一時が万事だから。
昔のように、男は外で働き、責任を持って女房子供を養う、女は家事を引き受けて、男が安心して外で働けるようにするということであれば、何かのときに男が家事の手助けをするのは、それだけで充分愛情の表現になる。ほんのちょっとした男の心遣いを、女の方も敏感に感じ取るわけだよ。だけど、いまのような世の中になると、みんな普通になっちゃって、女の方が何にも感じなくなっちゃう。すべての男と女の問題がそうであると同様に、いまの世の中全部が劇的な世の中ではなくなっちゃったんだよ。だから人間がつまらなくなっちゃった。
現代の若い人達を見ていて感じることは、「プロセスを大切にしない」ということだね。小説を書く志望の人でもそうですよ。すぐ流行作家になりたい、原稿を金にしたい、それでやっているんだから、いまや。そこに至るまでのプロセスが本当は一番大事なんだ。サラリーマンだってやっぱり同じことが言えるんじゃないの。下の仕事、人の嫌がる仕事をもっと進んでやるということ、それが大事なんじゃないかと思いますよ。
「自分は、死ぬところに向かって生きているんだ」と、何かにつけて考えればいいんだよ。ふっと思えばいいのだ。真剣に考えたって、そこの問題は解決できないことなんだから。漠然と考えるだけでいい。それだけで違ってくるんだ。「人間は死ぬ」という、この簡明な事実をできるだけ若い頃から意識することにある。もう、そのことに尽きると言ってもいい。朝、気がついてみたら息が止まっていた。これが大往生で、人間の理想はそれなんだ。
以上が本書の概要です。男として生まれ、しかし、男としての生き方を知っている人は少ない。だいたい、どう生きたらいいのかなども考える人も少ない。男として立ち振る舞いが分かる人は、他人から見れば何と魅力的な人なんだろうと感じるに違いありません。本書を読むと、そんな人になりたい、「粋で」「お洒落で」「人生がよくわかる」「他人に思いやりがあり」「人様を喜ばすことができる」、そんな人になりたいと思うような本書です。
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