私は、本書の第1部で多くの頁を割いたデフレと不況の脅威が、今や過去のものとなったとは信じていない。例えば日本では、2003年10月〜12月期のGDPが力強く成長したと報告されているが、名目GDPの成長は依然として極めて低い。その違いは、物価下落が続いているからである。デフレの危険が去っていないことは明らかだ。
ユーロ圏では、2004年初めの状況は2003年初頭よりいくらか好転しているように見えるが、経済成長はいまだ極めて弱く、デフレの危険はなお現実のものとなっている。ユーロの為替レートが上昇すればするほど、その危険は大きくなる。
本書は3部構成となっている。第1部では富の幻想の破綻を解明する。そこから生じた危険を経験した読者たちは、第2部で富の本当の源泉についての正反対のメッセージを受けて驚くかもしれない。そして、第3部で描く未来のビジョンに興味を惹かれ、嬉しい驚きを感じるかもしれない。
世界は豊かな富へ向かうか、深刻な不況に沈むかという決定的な分岐点に立っている。われわれが経済の潜在能力を目一杯働かせれば、世界中の生活水準を大きく向上させることができるが、負の力もまた、深刻な下降へと誘う脅威をはらんでいる。
社会は、株価の上昇によって富むことはできない。社会が豊かになるのは、生産性を向上させた時だけだ。株価の上昇は、せいぜい将来の豊かさを予見し、それを反映するだけである。その場合でも、富を生むのは株価の上昇ではなく、基底にある実体経済の進歩である。
アメリカの自動車の平均価格は1998年には25000ドルだったが、今では24500ドルになっている。特大ハンバーガーは、1983年には1ドル40セントだったが、2003年には99セントだ。イギリスでは1997年後半から2003年夏までの間に、衣服と靴の平均単価は18%、AV機器は56%、電話通話料は13%下落した。デフレの波はさらに、読者が今読んでいる情報媒体、すなわち書籍にも及んでいる。2003年5月時点で、イギリスの書籍の平均小売価格は2年前に比べて5%下がった。その上、多くの西側諸国では総合物価のインフレ率が、ゼロに近い危険水域まで下がっている。ドイツのインフレ率は2003年には0.7%という低さであり、アメリカではコアインフレ率〔価格変動の激しい品目を除く〕は1.5%に下がった。これは37年ぶりの低率である。
では、デフレ不況の危険はどうすれば回避できるのか。危機の発端が人間的な要因にあるならば、解決策もまたそうである。不可欠なのは政治的リーダーシップだ。デフレ克服は技術的には難しいことではない。困難は組織、思想、信念、期待など人間の側にある。1990年代後半に投資家たちが株式バブルの熱狂にはまり込み、富の幻想が出現したのとは反対に、今や富の本当の源泉が力を強めつつある。かつては市場が経済に先行していたが、今では経済が市場に先行しようとしている。
18世紀に経済学の父アダム・スミスが説いた経済成長の理論は、今日でも正しい。スミスは言う。経済成長の鍵は市場の規模、すなわち、交換し、取引し、売買したいという人間の本源的な欲望が実現される人間の支配領域の広さである、と。市場が大きいほど専門化の度合いが深まり、生産の平均コストは低下する。換言すれば、経済は収穫逓増を実現するということだ。
1990年代後半の株式市場ブームが巨大な幻想だったことと、それでも夢想家たちが経済について結果的に正しい見方ができたことが、どう両立できるのか。3つの理由がある。
第一は価格である。ブーム期における株式市場の高騰は、未来の経済についての多くの良い情報を割り引いて取り込むまでに至った。市場の水準がそれ以上変化しなかったのは、株価の中には正しい期待とともに馬鹿げた期待も山ほど入っていたからだろう。その後、市場は未来を割り引くことはなくなった。
第二に、市場は高い株価を裏付けるのは、予見できる未来の経済的利益だけで十分だと仮定していたように見える。だが、経済の実績が良くなった場合に、その利益の大部分が株主の手に渡らなければならないという理由はない。市場がかつてもてはやしたような技術革新が果実を生む時には、その利益の圧倒的大部分は、競争の強化を通じて消費者の手に渡るだろう。
第三は、市場が産業や会社のライフサイクルについてまったく無知だったことである。
以上3つの点は、重要な帰結を持つ。経済の未来を夢想した人々は、その投資の方法は致命的に間違っていたが、そのような超強気が結果的に正しいと証明される可能性は完全にあり得るのだ。
アメリカでは、年金負債の会計規則は会社に大幅な裁量の余地を与えている。それが徹底的に利用された。年金資産からの収益の繰り入れは最低線で良かったし、その上、株式市場での損失は何年にも渡って償却〔分割計上〕できるが、株からの収益は当該年度の利益として計上できるというシステムになっていた。だから、年金資産の価値が下落しているかもしれないのに、会社はそれでも会計上は利益を計上するかもしれない。
イギリスでは年金準備金の問題はもっと不透明で、もっと差し迫っている。いわゆる確定拠出型年金に投資している人々は、アメリカの401K型年金に加入している人々と同様の立場にいる。だがイギリスでは、大部分の人々はこの立場ではなく、退職時の最終給与の一定割合を約束する企業年金でカバーされているので、見掛け上は安全だ。だが、その中身は見掛けとは大違いだ。少なくとも会社の負担はどんどん重くなってきており、その打撃を従業員の側に移そうとするケースが多くなってきている。
デフレという言葉に注意を払う必要がある。産出の低落はよくデフレと言われるが、それが物価下落と同時並行的に起こっても、両者は同じではない。私がデフレと言う時には、消費者物価の下落を意味する。インフレ率が低い時には、下がる価格が必ず存在する。近年、電機製品、電話通信設備、さらに衣服や靴まで年々値下がりし続けてきた。だが他のものの価格が上がっているので、全体としての物価水準は上がり続けている。これはデフレではない。全般的な物価水準が下がる時にデフレが起こる。日本では2003年の消費者物価水準が10年前と同じになった。それ以外の物価、生産者物価や地価、住宅価格、株価など動きやすく需要の変化にすぐに対応する物価は、もっと急速に下落している。これがデフレである。興味深いことに、繁栄するデフレの時代には、現在と同じく、技術進歩とグローバリゼーションの進展が見られた。そのため、「悪いデフレ」と「良いデフレ」を区別しようとする人々がいる。「悪いデフレ」は資産価格の崩落、あるいは誤った金融政策の結果として起こるもので、「良いデフレ」は生産性上昇率が高まり、あるいは国際貿易の拡大によるコスト低減の結果として起こる。
ほとんどの人々は、デフレが民間部門の年金にどのような問題を起こそうと、少なくとも国家が保証した年金は大丈夫だろうと考えている。だがそうではない。デフレ下では税収が減り、政府支出を削減できなければ財政赤字が拡大する。深刻な場合には、政府債務が耐え難いほどの水準に達する。そこで将来の公的年金の受給者は、約束通りの年金が貰えるのかどうか心配するようになる。これが今、日本で起こっていることなのだ。1つの逃げ道は、物価下落に比例して年金額を減らすことだ。これはすでに日本では実現し、2003年2月に、年金給付月額はデフレ率に相応して0.9%切り下げられた。
インフレ時代からデフレに移行すると、その前に固定給付の年金に加入して退職した人々は大いに得をする。アメリカとイギリスでは、確定給付型年金に加入していて、市場の高インフレ期待を反映して年金の給付率が高かった時に退職し、その後にデフレの始まりに出会った人々が勝者である。反対に、明らかな敗者もいる。
デフレは、死に至る可能性を持つ病である。日本の不況は10年続いたが、最新7年間はデフレが伴った。だからどうだと言うのだ。日本は世界の他の国々から大きな債務を負っていない。大きな貸し手だ。その経済が縮み続け物価が下がり続けたところで、誰が心配する必要があるのか。こうした自己満足は誤りだ。世界は、第2位の経済大国が低迷している中で繁栄するのは難しいことを知るだろう。われわれすべてにとって強い日本が必要だ。日本の弱さは他の国々に直に波及する。弱い日本は、西側諸国の繁栄の鍵を握る東アジアの安定を脅かす。日本がデフレを克服する一つの道は、超円安を通じてデフレを世界中に輸出することである。
富と繁栄の源泉としての土地と原料の重要性が低下したのに対し、知識は重要性を高めてきた。知識を獲得するためには、少なくとも時間と努力が必要だ。富への鍵は生産性であり、生産性への鍵は知識である。生産性向上とは、同量の投入に対してより多くの産出が得られるということだ。
事物よりも心の重要性がどんどん高まってきている。何に対してカネを払うかという選択自体が、ある種の知識となってきている。買いたいものの多くはもはや「物」ではなく、もっと厳密に言えば商品でもサービスでもなくなってきている。それは「非物」、すなわち人間の心の産物である。製造物ではなく心造物だ。たとえばコンピュータのソフトウエア、医療、音楽、映画等々である。現代社会は、知識が知識を生む段階に到達した。消費の流れを生み出す資本は知識であり、消費「財」自体もますます知識になっている。知識を投入し知識を産出するのだ。
無形財革命は、コストゼロのカネへの道である。有形財と無形財とのバランスを変えていくダイナミックな諸力が働いている。健康、教育、情報、通信、娯楽等々の分野における無形の産物への需要の伸びは、食料、自動車、洗剤等々への需要の伸びをはるかに上回っている。たとえこれ以上の構造的変化がなくても、有形財と無形財とのバランスは10年か15年のうちに根本的に変わるだろう。
グローバル化が進んだ世界では、国家や政府の力が弱くなるのは確かだ。政府の力もまたグローバル化せざるを得ず、国際機関の力が増し、国家や政府の間の協力が強まる。この傾向は既にある程度まで進んでいて、地域的な貿易共同体や政治共同体が出現して、環境問題のようなグローバルな問題を地球ベースで取り扱うようになっている。
未来の経済についての私のビジョンは、次の4点から構成されている。
- 金融の未来と、そこで用いられるすべての手段
- ビジネスの世界、勝者と敗者、そして企業がどう変わっていくか
- 人々の生活はどうなるか。収入の道、カネの使い方、欲望の達成の仕方はどうなってくるか
- 価値観の問題。極めて豊かな世界において、働く目的や努力やカネの意味はどうなるのか
未来の金融市場では、調査は次の3つのガイドラインに従わなければならない。第1に、誰が何に対してカネを払うのかを明らかにしなければならない。第2に、あるものは取り上げず支払いも受けないが、他のサービスは受けられるという選択の機会がなければならない。第3に、調査の主要部分は利害関係から独立でなければならない。
アメリカやイギリスの海外からの収入は、すでにかなりの部分が物の販売ではなく、直接投資からの所得と並んで、権利使用料、特許使用料、ライセンス免許料、ブランド使用料など目に見えないものの所有権から入ってきている。2002年には、イギリスの特許使用料とライセンス免許料の受取合計は、全サービス輸出の約6%に達した。アメリカではこの比率はもっと高く15%、額にして430億ドルに上る。その上、こうした受取額は急速に伸びている。1986年から2002年までに、サービス輸出全体は230%増えたのに対し、特許使用料とライセンス料の収入は430%伸びた。
生活水準が向上すると、より高水準の医療への需要がそれ以上のスピードで増加する。これは薬剤への需要を急増させる。ここ当分は、発展途上諸国がその種の製品開発で競争できるようになる見通しはない。さらに、医療のハードウェアに対する需要、海外の医療センターでの治療を含む個人のヘルスケア需要、新しい病院建設の需要などが急速に増えるだろうが、それを供給するのは北米と西欧、主としてアメリカとイギリスだろう。
インターネットによって経済全体に行き渡り、物質世界に確固として残っているビジネスにも大きな影響を与える3つの力がある。第1はムダと空き空間の除去である。現代経済には、不確実性と変動性に対処するために余裕能力が不可欠である。需要は時々刻々変動するから、需要のピークに対応するためには、需要がそれ以下の時には余裕能力を持つように計画しなければならない。第2は、供給源や価格や品質についての情報が爆発的に増え、消費者の選択を助ける精緻なソフトウエアが使えるようになって、消費者の反応が敏感になる。第3に、情報量が増えれば顧客はより多くの情報に基づいた選択ができるから、効率が上がる。ホテルの予約を例にとってみよう。多くのホテルが見込客に部屋の広さ、眺め、レストランの内容などをオンラインで見せている。未来の経済では、情報へのこうしたアクセスやその情報に基づいた選択が標準的なやり方となって行くだろう。
インフレの死滅は、経営者にとっても未来の経済にとっても、多大な影響をすでに及ぼしている。デフレの出現とともに、その結果はさらに大きなものとなろう。今後の経済はデフレ経済だと考えられる。ムーアの法則によれば、マイクロチップの演算能力は18ヵ月ごとに倍増し、演算コストもほぼ同じ割合で下がっている。今日の1000ドルのパソコンは、10年前の巨大コンピュータと同程度の演算能力を持っている。また電話のコストは急低下しており、現在の1ドルの通話は、50年前の現在価格1000ドルの通話に相当する。
看護師、介護福祉士、保育士など、人の世話をする専門職への需要が急増するだろう。また、イギリスの国民所得統計で「対人サービス」に分類されている職業の従事者も大幅に増えるだろう。
GDPが幸福度の尺度として不完全なのは、2つの点から指摘できる。まず、健康、死、苦痛といった要因の重要性から見て、GDP統計は人間の幸福増進を過小評価している。このことは、所得がある水準以上になるとGDPは幸福度と相関しなくなるという事実を、これまでのGDP統計についての逃げ口上では説明できないのではないかという私の疑念をますます強くする。
デフレの脅威を克服したとしても、急速に成長する世界の供給能力に見合うだけの総需要を維持しなければならないという課題は残る。これについても財政からの刺激、低金利、必要な場合には非正統的な通貨政策といった同様の政策が役立つだろうが、グローバルな水準で総需要を十分に成長させるためには、ヨーロッパについては3つの構造改革が必要である。第1に必要なのは、日本経済を発進させるために弱い円を受け入れることと、アメリカの巨大な貿易収支不均衡を是正するために弱いドルを許容することである。第2の改革は、安定成長協定の根本的な改正である。これには、ヨーロッパ諸国政府のリーダーシップが必要だ。第3の改革は、ヨーロッパの労働市場の自由化と投資促進のための構造改革である。
現在、世界の指導的経済大国では、重い責任が政策担当者達の肩にかかっている。世界中の中央銀行と政府は、デフレに抗して需要を成長させる責任を持つ。EU諸国の政府は、労働市場を改革し、経済政策の有効性を高める責任を持つ。すべての政府は、円安とドル安を受け入れ、保護を強めるのではなく自由貿易を促進する責任を持つ。中国政府は、国内需要を増大させ、人民元の切り上げを受け入れ、経常収支赤字を許容する責任を持つ。アメリカ政府は新しい世界秩序を作り上げ、IMFや世界銀行といった既存の国際機関を刷新し、あるいは新規に創設する責任がある。西側世界の人々に、他の国々の急速な発展と国際貿易の拡大は自分達の利益になるということをどうやって理解させるか。それが、経済学者、及び政治家に対しての挑戦である。
以上が本書の概要である。本書の原書は2003年12月の刊行直後から増刷を重ね、たちまちベストセラーとなった。1996年に「The Death of Inflation」を刊行し、これもベストセラーとなって増刷を重ねた。1998年初頭に、高橋乗宣氏の監訳の下、『デフレの恐怖』の題名で東洋経済新報社から日本語版が刊行された。前作において当時の現実をはるかに超える歴史的視野を示した著者は、本書においても単にデフレの危険を分析し、警告し、その対策を提言するだけに止まってはいない。「富の本当の源泉」を、力強い説得力をもって提示し、デフレを克服した後の未来の経済と生活を詳細に描いている。そこに描かれているのは、富の本当の源泉がフルに開花し機能する結果として、先進諸国のみならず、現在の発展途上諸国も低開発諸国も、世界中すべての国々と人々が限りない繁栄と生活向上を実現する未来の姿である。特に第3部の「未来の経済」に明確に描かれている。
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