日本人の多くは、グローバリゼーションとはグローバル・スタンダードに従うことであり、それに倣うことはアメリカナイズされることだと思い込んでいる。しかし、教授によるとグローバリゼーションとは、まだまだ建設途中のバベルの塔(旧約聖書の中にある伝説の塔、バベルの町に建てて天に届かせようとしたが、神の怒りを受けて破壊された。転じて実現不可能な架空の計画)のようなものであり、決して森羅万象をアメリカ式に変えようとする動きではないと断じている。
本書は、第1章:バベルの塔、第2章:アメリカ・日本・ヨーロッパ、第3章:資本主義の本質、第4章:反グローバリゼーションの声、第5章:真の脅威、第6章:資本主義を建て直す、第7章:CKO(最高知識責任者)、第8章:知識資本主義―成功の条件、以上の構成になっている。
グローバリゼーションはバベルの塔によく似ている。この経済のバベルの塔は、明確な建設計画なしに建てられている。建設に必要な設計図すら描かれ始めていない状態である。政府もバベルの塔がいかにあるべきか、という確固たる計画を持ち合わせているわけではない。なぜならその塔は、民間主導によって建設が進められているからである。グローバリゼーションは、多くの異なる人々にとって多くの異なる意味を持つと言える。グローバリゼーションに関する議論は喧々囂々たるものだが、重要なことは事実とフィクションを区別する際、経済のバベルの塔は立つ位置によってそれが異なって見えるということを理解することである。このことに最も自らを戒めて留意しなければならないのは、アメリカ人であろう。アメリカは最も裕福な成功者であり、最も巨大な権力を保持している。アメリカほどグローバル経済構築の中心に位置する国はないのである。軍事的、経済的に見て、人類の歴史の中でこれほど君臨した国は存在しない。ローマ帝国は地中海近辺の広大な土地を支配したが、アメリカは世界に君臨している。従って、グローバリゼーションを形成するに当ってはアメリカ人の考え方が大きく影響する。しかし、グローバリゼーションの形成は、アメリカがその巨大な力を世界に対して好き勝手に行使することを制限することにもつながる。
アメリカをコントロールすることは無理であるが、アメリカを他国と連携させ、共同歩調を取らせることはできるのである。グローバル経済を構築していくことは、アメリカを世界の他の国々と連携させていく1つの方法だと言える。世界はグローバリゼーションを、ある程度そのような観点から考えるべきである。世界の国々にとって、グローバリゼーションに対するアメリカの見方を理解することは、自分達に合った形でグローバリゼーションを形成していくために不可欠なことである。実際のところ、グローバリゼーションはいかなる他の社会よりも、アメリカにいち早く変革をもたらしている。これほど早く生産を海外に移転している国はない。これほど多くの人々が、グローバル規模での物資供給網の変化のために職を失っている国もない。これほど文化が急激に変化している国もない。
現在は先進諸国のおよそ10億の人々が世界の生産高のおよそ80%を担い、発展途上国の50億の人々が残りの20%を生産している。購買力平価指数で換算すると、2000年の世界GDPは44兆ドルとなる。購買力平価指数で計算した世界のモノとサービスの方が、通貨で換算したモノとサービスの値よりも大きい額となる。それはほとんど途上国において、モノやサービスの購買価格平均がアメリカよりも低いからである。購買力平価で計算すると、中心的な先進工業国が世界生産の51%を担うことになる。アメリカが23%、ヨーロッパ連合が20%、日本が8%である。周辺的な工業諸国が5%、そして途上国が残りの44%である。つまり購買力平価で計算すると途上国はその規模を倍増し、先進諸国と途上国の割合は80対20から、約55対45の割合となる。通貨価値だと日本経済は中国の4倍となり(日本が世界のGDPの16%であるのに対して中国は4%)、購買力平価を用いると、中国経済は日本よりも50%も大きい(12%対8%)という計算になる。
テクノロジーの大変革が、企業に国内からグローバル企業へと変貌するように迫った。見方を変えるなら、誘惑したとも言える。新しいコンピュータ通信技術の発達に伴い、利益を最大化しようとする企業は、生産コストを最低限に抑えられる場所であるなら世界のどこでも製品を作らなければならない。また、世界のどこであれ、製品が最も高く売れる場所で販売しなければならない。もし、ある企業がそのような場所を見つけることができれば、他の企業が見つけることだろう。グローバルに成長しない企業は、グローバルな発展を遂げた企業によって駆逐され、倒産を余儀なくされる。つまり、グローバルになるかならないかは、企業の生き残り、その存亡がかかっていると言えるのである。ビジネスという観点から考えるなら、通信技術の発展によってグローバル規模での販売と資材調達が可能になったことは、高い利益を生むと同時にグローバルであることが常に必要不可欠になったということでもある。
1990年代の日本は、その経済危機を終われせるために他の国々で成功している新しい技術を取り入れ、それに順応しようとはしなかった。日本は過去の成功体験を捨てることができなかった。それが現在も、そして将来もたぶん成功しないだろうというのにである。他で成功していることを研究し、そこから学んだことで危機から脱出しなかった結果、日本はこの10年間わずか1%前後の低成長に喘いできた。そして「失われた10年」が「失われた20年」になるかもしれないことを否定する理由は、どこにもないのである。
もし日本が1990年代、80年代同様年率5%で成長を続けていたなら、世界のGDPは2兆3000億ドル、ないしは2002年の規模よりも7%大きかったことになる。中国は1990年代、年率9.7%の成長を遂げたと主張しているが、そうだとしても世界経済に750億ドルを追加しただけということになる。日本の景気低迷で失われたものは、中国の経済成長によって得られたものの3倍も大きかったのである。
1929年以前、アメリカには2000以上の自動車メーカーがあった。ヘンリー・フォードのような自転車をつくっていたすべての人が、自動車をつくり始めた。しかし、1950年代の終わりにはたった3社しか残っていなかった――フォード、ジェネラル・モーターズ、そしてクライスラー。この3社に投資したラッキー、ないしは賢明だった投資家は、1950年代には大金持ちになっている。1929年には株式市場の大暴落があり、1930年代には大恐慌があったにもかかわらずである。エコノミストにとって、なぜこれらの企業が生き残ったのかを理解することは難しいことではない。フォードは自動車生産のビジネスモデルを創り出した。つまり組立の流れ作業、部品の生産、そして部品供給管理である。ジェネラル・モーターズは自動車販売のビジネスモデルをつくった。毎年のモデル・チェンジや色の変化、すなわち車とはそのオーナーの個性の延長であるということ、従って買う者は車を冷蔵庫のようには取り扱わないだろうし、買い替えも25年に1回ではないことを見抜いていた。ところがクライスラーが実行したことは、二流企業の中で最も成績のいい数社を吸収合併したことであった。その結果、クライスラーは常に二流企業であった。そして最後には経営上の独立性を失い、1998年にドイツの会社となっている。
景気回復を分析する際、景気回復には2つの定義があることを理解しなければならない。エコノミストにとって、景気回復とは単に持続的なプラス成長率でしかない。四半期ごとに続くなら、0.1%の成長率でも景気は回復しているのである。しかし、それはビジネスマンにとっての景気回復ではない。ビジネスマンにとってはGDPが0.1%プラスになろうが、マイナスになろうが関係ないのである。ビジネスマンが言う景気回復というものは、企業が発展拡大できるほどの成長率であり、そのことによって会社の利益が拡大することである。普通の労働者にとって、景気回復とは仕事が得やすくなるということである。雇用を増やすためには、生産高の成長率が生産性の成長率よりも高くならなくてはならない。失われた雇用数を時間単位で算出するのは、生産性の成長率−生産高の成長率である。
グローバリゼーションによって、非効率的な企業がより安い賃金とコストを求めて生産を海外に移せば、平均的な生産性は増大する。効率の悪い労働者を排除すれば、残った労働者の平均的なパフォーマンスは上がる。1時間当りの生産性も上がるが、働くアメリカ人の数は減る。この生産性の伸びを国のGDPに成長に結びつけるためには、生産性の川下で職がなくなるよりもさらに早く、生産性の川上とその途中に位置する部署で雇用を増大させるようなマクロ経済政策が実施されなければならない。
日本は10年間もゼロに近い低成長が続いてきたというのに、失業率は5%を若干超える程度で、アメリカやヨーロッパの水準を下回っている。実際に働いている日本人の95%の現金給与は、アメリカの労働者よりも10%は高い。迫り来る明確な危機がないため、日本人は基本的な変革について議論するが、誰もそれを実施する意志がない。従おうとする者がいないため、誰もリーダーにならないのである。もし「政府」の役割が、景気を回復させることであるのなら、日本には政府など存在しないと言える。日本の政府は喋肢り、議論し、約束するが、行動はしない。
デフレ下の環境では、コストを下げられるかどうかということがビジネスの勝敗を分けるため、企業にとっては従業員の賃金を引き下げるしか選択肢はない。そうしなければ従業員の賃金は高くなり過ぎてしまう。競争に勝ち抜く企業とは、デフレよりも早いペースで賃金を引き下げられる企業のことである。とは言え、賃金を下げることは難しい。10%のデフレ環境下で3%の実質賃金削減を実施するためには、現金で受け取る給与を13%削減しなければならない。しかし、企業が削減を実行すればするほど、価格は早く下落していく。労働者はそのような賃金の大幅削減に対して、公にはスト、そしてまた裏ではサボタージュで抵抗することだろう。
世界第3位の経済大国日本が停滞したままでは、豊かなグローバル経済を構築することは困難である。日本の経済的停滞はかなり先まで続きそうである。だが、その停滞の原因は経済の中にあるのではない。それらは解決されないで放置されている政治的な危機にあると言える。つまり、やるべきことをやれなかったという無能さに起因しているのである。
アメリカでは、全世帯の上位10%が最下位20%よりも16%も高い平均収入を得ているが、その資産となると106倍も多い。資本主義経済下では、富は賃金より不平等に配分されているのである。資本主義下では、将来の大企業は新しく起業した小さな会社の努力によってつくり上げられていかなければならない。資本主義とは実際、宝くじなのである。非常に少数の大きな勝者を生むために、多数の人々が参加しなければならない。アメリカで最も裕福な10人のうち4人は、ウォルトンズ、つまりウォルマートの財産の相続者である。資本主義は時を経て増大していく。なぜなら経済とは、ある意味でリレー競争のようなもので、先んじる者が先頭を走り続けるのである。
グローバリゼーションは、資本主義と知識集約的社会への移行を加速させる。資本家がやりたいことは単純明快である。利益を極大化する企業は、利益が低い所から高い所へとその活動を移す。グローバリゼーションとは、つまり利益を上げるために活動を移転させるということである。
グローバリゼーションに反対する者たちは、しばしば途上国の利益を代表しているかのように話すが、途上国の国々はグローバリゼーションから離脱すれば何が起こるかよく理解している。途上国はグローバリゼーションに参加したいのである。参加することのコストや先進諸国に支配されてしまうのではないかという心配があるが、それ以上に世界から見捨てられることの方がより心配の種であるはずだ。世界から仲間はずれにされたり、置き去りにされたくはないのである。
ほとんどの先進国では、研究開発費の総額に占める政府の負担は減少している。政府が新しい知識を開発する役割から撤退しつつあるのだから、当然、民間企業がその分研究開発に力を入れなければその水準は落ち込むことになる。しかし、それは知的所有権のシステムがある限り起こらないだろう。民間企業は研究開発によって投資を回収することができ、リターンを稼ぐことができると考えるだろうからである。この結果、知的所有権はこれまで以上に重要となってきている。それはいかに特許申請数が爆発的に増え、それがいかに大切になったかを見れば歴然としている。先進諸国では、1999年から2001年までの2年間でWTOへの国際特許の申請が25%も増加している。アメリカでは特許申請が10年で倍になり、アメリカ企業は360億ドル以上も特許のライセンスで稼いでいる。
CKO(Chief Knowledge Officer)、つまり最高知識責任者の役割について最も簡単に理解する方法は、その担当者が企業において何をするのかということから始めることである。端的に言って、21世紀の新しいグローバル知識資本主義において、CKOの仕事は業界の「エッジ」、いわばその最先端がどこにあるのかを見つけ、それを取り入れることが仕事だと言える。これはCEO、最高経営責任者の仕事ではない。ビル・ゲイツがまさに模範的なCKOであると言える。彼は自らマイクロソフトのCEOの座から退き、CKOに就任している。彼の実際の仕事の肩書きは、「チーフ・ソフトウェア・アーキテクト」であるが、ソフトウェアを造る企業ではそれこそがCKOなのである。いち早くCKOというポジションをこしらえた企業は、競争的優位を獲得するはずである。知識資本主義においては特許、著作権、商標が企業にとっての最大の資産である。デル・コンピュータは部品供給管理に関して36の特許を持っている。
資本主義において、企業はあまり長く成功し続けることはできない。現代の技術は、バーベル・エコノミーとでも言えるものを作り出している。つまり、バーベル・エコノミーでは、すべての企業は両端(大規模あるいは小規模)のいずれかに位置するしかないのである。その真ん中は存在しない。すなわち、グローバルな大企業になるか、または小さなすき間、ニッチ市場に特化する小企業になるか、どちらかである。そして中型の国内企業は倒産する運命にあると。
グローバリゼーションによって、大国であろうが小国であろうが、政府の力は衰退しつつある。企業は利益を最大化するために、知識の流れをコントロールしなければならない。国家にとっても同じことで、その富を最大化するためには知識の流れをコントロールしなければならないのである。
以上が本書の概要である。訳者のあとがきとして、「良書は既成概念を打ち破り、目からウロコが落ちたかのように世界をぱっと照らしてくれる」と述べているが、まさに、訳者の表現がぴったりであり、非常に示唆深い本書である。サロー教授が指摘するように、日本を再生するためには経済システムだけでなく、日本文化をも変えなければならない。つまり、日本がグローバリゼーションを恐れず、新しいグローバル文化の建設に積極的に参加し、世界とともに構築していくかである。われわれが頑張るしかないのだ。
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