本書は、通説と現実の間の溝を実現し、その深さを見積もり、場合によってはその溝を活用するという、私自身の永年にわたる経験の産物である。私の到達した結論は、次ぎの通りである。社会的な選考、習慣としての選好に加えて、経済学会や政治学会においては、個人または集団が手にする金銭的利益が現実を見えにくくするという傾きが、他の学問分野に比べてはるかに顕著である。私の頭の中は、このことについての思いで一杯である。本書の各章で、なぜそうなったのかについて、考えを進めることにしよう。
本書の構成は、1.「悪意なき欺瞞」とは何か、2.「資本主義」という死語、3.市場における本当の主役、4.「労働」をめぐるパラドックス、5.企業を支配する「官僚主義」、6.「株主主権」という虚構、7.「官と民」という神話、8.幻想が支配する金融の世界、9.「中央銀行制度」という現実逃避、10.企業経営者の許されざる罪、11.外交と軍事の民営化、12.現代経済社会の真相、となっている。
欺瞞に悪意がないなどということがあり得るのか否か。あるいは、悪意なき行為が欺瞞的などということがあり得るのか否か。悪意なき欺瞞の存在を信じている人も、またその水先案内役を務めている人も、いささかの罪の意識も責任感も持つことなく、悪意なき欺瞞に与しているのである。理念が先行する社会――米国ではリベラル、欧州や日本では社会民主主義、あるいは社会主義を志向する社会――では、経済活動のみならず、人間活動のことごとくの誘引を、公共利益への奉仕に帰着させようとする。この考え方はまったくの誤りではないだろうか。公共的利益を向上させるのは、自己利益を追求する極ありきたりの個々人の言動をおいて他にないのである。
ヨーロッパでは、「資本主義」という言葉は資本家の絶大な権力と、多数の労働者からの過酷なまでの搾取という現実を、白日の下にさらすという効果を持った。かくして、革命の可能性を懸念する声は空前の高まりを見せたのである。米国では、資本主義に対して敵対的なのは、労働者だけにとどまらなかった。資本主義は、すべての人々に少なからぬ被害を及ぼす。資本家の搾取に起因する価格とコストの上昇がそれである。例えば、ロックフェラーによる石油供給の独占は、石油ランプ用の灯油をはじめ、生活必需品である石油製品の価格を高止まりさせ、家計を苦しめた。カーネギーによる鉄、デュークによるタバコの独占もまた同じような弊害を及ぼした。その昔、「資本主義」という言葉は、特定の経済システムの名称として受け入れられていたばかりか、経済的かつ政治的な権力を行使し得る立場にある人々が、自らの言動を正当化するための方便としての役割をも果たしていた。商業資本主義、産業資本主義、金融資本主義などといった言葉があった。これらの用語はいまだに命脈を保っているけれども、経済体制そのものが資本主義から市場システムへと改名された途端、資本主義は城壁を築いてその中に立てこもらざるを得なくなった。
資本主義という言葉が堂々とまかり通っていた頃、資本主義に幅広い社会的支持を獲得させるための方便として、次のようなことが言われていた。消費者主権、すなわち消費者が何を買うかの選択こそが、資本主義経済を動かす根本的な動力源に他ならない、と。資本主義は、個人の権限を最大限発揮させる体制なのである、と。言い換えれば、市場こそが、経済民主主義を実現する唯一無二の場なのである。しかし、残念なことに、市場経済は人に優しいだけではなかった。私たちの人生にとって欠かせないものを、また人生を楽しむために必要なものを商品化し、独占的に供給するものが現れたのである。そこには、消費者の選択が入り込む余地はまったくない。独占企業は消費者を思うがままに操ることができる。
GDPの増加は、所得と雇用を増やすばかりか、生活に必要な財・サービス、生活をより快適にする財・サービスの供給を増やすことになる。しかし、GDPの大きさやその中身のあり方は、広く行き渡っているもう一つの欺瞞の源泉でもある。GDPの中身は社会全体で決めるのではなく、各部門の生産者が決めるのである。大局的に見れば、この欺瞞が広まったのは経済界と、その御用経済学者による、わかりやすく、しかも的を射た説得が功を奏したためである。生産者が随意に決める生産額の集計であるGDPのみで社会の進歩を測ること――これもまた小さな欺瞞の一つである。
労働について語るとき、欺瞞は不可避的につきまとう。「労働」には2つの意味がある。1つは、強制される働き。もう1つは、人もうらやむ威信と報酬と快楽の源泉としての働き。まったく違う2つの事柄に同じ言葉を充てるのが、欺瞞であることは言うまでもあるまい。
零細な小売店はウォルマートになれることを、家族だけで畑を耕す農家は大規模な穀物と果物の生産・流通業者、あるいは近代的で大規模な牛肉生産者になれることを願っている。だが、いずれの場合にも、価格とコストの引き下げ合戦の結果、小規模なものは赤字に追い込まれ、必ず敗退する運命のもとにある。大企業の経済的かつ社会的な優位は、もはや否定しがたい事実なのである。政治的にも社会的にも、小規模企業や農家を称賛し続けることは、「悪意なき欺瞞」の事例である。いくら優れた技術開発力があっても、組織化された多様なビジネス・スキルがなければ、実を結ばない。技術者もまた、加齢に伴い第一線から退かざるを得なくなるし、厳しい現実にも立ち向かわなければならないからだ。その結果、例えば、マイクロソフト社のような経営能力と組織力に長けた、相対的に大規模な企業が優位に立つことになるのである。
「所有権こそが究極の権限である」とほとんどの人がかつては信じていたし、今なおおそう信じている人が少なくあるまい。年次株主総会では、企業業績、収支決算、経営目標、その他諸々――ただし、その大部分は既知のことである――について報告がなされる。株主総会とは、まさしくバプティスト教会の礼拝のような儀式にすぎない。経営者の権限はむろんのこと、彼らの年俸やストックオプションという報酬についても、異議が差し挟まれることはない。こうした事実は、「悪意なき」とは言い切れない欺瞞なのである。
ウォール街でコンサルタント役を引き受けるエコノミストは、報酬の金額が少なくても文句を言わない、というのはもはや昔話となってしまった。その代わり彼らは、研究委託先の儲けが最も大きくなるような予測をする。また彼らは、自分の予測が周知されることを望む。なぜなら彼らは、自分の保有している株式の株価を押し上げる効果のある予測をしているのだから。要するに、自らの利益に供し、自らの損失を防ぐことが、ウォール街を闊歩するエコノミストたちの予測の目的なのである。経済学の専門家に投げかけられた暗い影。欺瞞はそもそも本家本元に近づいてきたのである。
企業スキャンダルの頻発と、それらへの関心の高まりは、適切な規制を施し、適切な監視体制を構築するべきである、との議論を巻き起こした。実効性のある規制のおかげで企業の行動が改善されれば、国民全体に大いなる利益がもたらされる。経営者による横領は国民全体に不利益をもたらす。このことは誇張でも脅かしでもなく、正真正銘の事実なのである。取締役や株主による監視機能が十分だと思ってはならない。不正を防止する力を持つのは、司法当局だけなのである。
ワシントンのペンタゴンは絶えず戦争を支持してきた。実際、これはあり得ておかしくない話である。軍人、そして軍需産業が戦争に賛成し、これを是認するのは、職業上、しごくもっともなことなのだから。繰り返して言おう。これは当然の成り行きだと理解すべきである。これまた、私的セクターと公的セクターの間の偽りの「線引き」の一例というべきである。巨利をもたらす兵器売買契約への企業の関心が、ありありと見てとれるからだ。アイゼンハワーが言った軍産複合体そのものである。私は、軍産複合体の存在に異を唱えようとしない現実とは共生したくない。その存在を容認する社会の方がはるかにましである。
近時、景気回復のために必要だからとして実施される減税が景気回復の特効薬だというのは、寓話以外の何ものでもない。まるで、企業、企業経営者、そして巨額の配当所得が手に入る富裕な株主の税引き後所得に応じて、企業の投資、生産、そして雇用が決まるかのように言うのが通説とされてきた。すべての経営者は、エコノミストの言説にならって、減税により彼らの手元に残ったお金は周り回って経済成長率を高め、結果的に所得税収を増加させることになると信じている。しかしながら、豊かな企業経営者の手元に残るお金が消費に回り、経済全体に波及するわけでは必ずしもない。企業のエリートたちにとっての減税は、既に過分な水準に達している彼らの可処分所得を、一段と増額するだけである。
米英両国は目下、イラク戦争後の辛酸をなめている。イラクの若者たちの計画的殺戮、そして年齢と男女を問わない無差別殺戮を米英両軍が実行するのを、私たちは見て見ぬふりをしてきた。実際、第1次と第2次世界大戦中と同じく、私たちには抵抗のしようがなかったのだ。文明は、数世紀間に渡る科学、医療、あえて付け加えれば、経済的繁栄の賜物である。その半面、文明は兵器の増強と周辺諸国への軍事的脅威、そして戦争をも是認してきた。文明を普遍化させるためには、大量殺戮さえもが避けて通れぬ道だとして正当化されるようになった。今もって戦争は、人類の犯す失敗の最たるものなのである。
以上が本書の概要である。ジョン・ケネス・ガルブレイス ハーバード大学名譽教授の数多くの著作のほとんどが日本語に翻訳され、ベストセラー入りをはたしている。ガルブレイスは1908年生まれであるから、今年は96歳である。本書の中で、ガルブレイスが指摘する「悪意なき欺瞞」を多くに人たちに読んでいただき、本質的なことを理解して欲しいと願わざるを得ない。最近、OECDから41か国の15歳、27万6千人の学力調査が行われた結果が発表された。いろいろな学力の面で順位を下げている。文部科学省のあり方に「悪意なき欺瞞」を感じる。今後、義務教育費も削減される。将来日本を背負って立つ若者の教育のあり方に、真剣に取り組んでいかなければならない。この現実を再度見つめ直す必要があることを痛切に感じる。
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