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堺屋太一の見方表紙写真

堺屋太一の見方 時代の先行き、社会の仕組み、人間の動きを語る

著  者:堺屋 太一
出 版 社:PHP研究所
価  格:1,680円(税込)
ISBNコード:4−569−64086−9

ものを書くようになって40年になる。この40年間に、世界も日本も世間も人間も、大きく変わった。変化の度合いが大きいだけではない。歴史の流れる方向と人類文明の本質が根本的に違うものになった。近代工業社会が頂点を極めて崩落、新しい歴史段階の知価社会が始まったのだ。人類の数千年に及ぶ歴史の中で、歴史段階の変化と言えるものは5回ほどしかない。その1つが今、この20年ほどの間に起こった。

実際、正確な予想も適確な判断も、始まりは「見方」である。まず、世の中の「かたち」と「気持ち」をどう見るか、「今」という時代の「流れ」と「先行き」をどう見るか、そして数多い現象の中からどのような共通原理をどう見出すか。それによって、導き出される結論はほぼ決まる。「見方」は「考え方」を、「考え方」は「生き方」を限定するのである。

本書は「人と人生」、「日本と日本人」、「経営と経済」、「組織」、「知恵と知価」、「情報と文化」、「国家と政治」、「倫理と美意識」の構成になっている。

能力があって意欲のない人間ほどいやな奴はいない。
能力がなくて意欲のある人間ほどかわいいものはない。

一生を四季に例える――人生は冬から始まり、秋で終わる。本当の実りの季節「秋」がやってくる。最早、青竜のように舞い上がることも、朱雀のように派手に振舞う必要もなく、思うがままに生きて世を睥睨していればよい。だからこの年代を象徴するのは白であり、虎である。それゆえ、高齢期を「白秋」と呼ぶ。会津藩は少年で編成した部隊を「白虎隊」と命名したが、「周易」以来の東洋思想に基づけば、「白虎」は高齢者の形容なのだ。20歳から40歳ぐらいまでが青春時代。春が終わり、赤い太陽が照りつける夏、「朱夏」といわれる中年時代がやってくる。40を過ぎると自らの判断で目標を定め、後輩や部下を導かねばならない。現実を我がものと感じる生臭さと、未来の夢を描く意欲のある限り、いつまでも「中年」は続くのである。人間、1つのことに興味と情熱を持てば、5年で一人前、10年で専門家の領域に達せられる。

いつの時代でも勇気と冒険心は尊い。それゆえに人類は進歩し、成功する個人も現れる。本当の自由競争は、そうした人間の欲望を掻き立てる仕組みでもある。

職業は「有利」よりも「好き」で選ぶべきものだ。「有利」と思って入った職場が時代の変化で「不利」となったら、不利で嫌いな職場に閉じ込められている自分を発見することになる。「好き」で選べば、不利になっても「好き」が残る。人間が成功する第一の要件は、「好きな道」を進むことだ。たいていの人は、将来の道を選ぶとき、有利な分野に入ろうとする。しかし、これは人生を誤りやすい方法だ。1つの職業職場が30年間有利であり続けることはないからである。

経済が成長し、所得が増えた今、次に求めるべきは「心の豊かさ」だと言われる。では、「心の豊かさ」とは何だろう。次の5つだ。第一に他人と競わぬこと、第2に足りを知ること、第3に目先に惑わされず長期展望を持つこと、第4に量に狂わず質を選ぶこと、第5に常に正しい手段を選ぶこと、である。

人間は何のためにお金を求めるか。それには4つの段階がある。最初は、今日の飢えからの自由(開放)、次は明日の不安からの自由、第3は未来の心配からの自由、そして第4は社会の評判からの自由である。現在に深刻な心配がなく、将来に心配のある人は、大体において「中流」意識になる。現在に深刻な心配がある人は、「下層」の意識になる。そして、現在も心配がなければ将来も心配しないという自信満々の人は、自分は「上流」だという気になるものだ。

日本人が桜の花を愛するのは、人間もまた、一斉に咲いて一斉に散り、一輪だけが目立つことのない桜の花のように生きて欲しい、という願いがあったからではないだろうか。少なくともそう解説した方が、日本と日本人を正しく理解するのに役立つだろう。

長く官僚主導型の経済を続けてきた日本では、「コスト+適正利潤=適正価格」が当然という風潮が広まり、社会的にも広く受け入れられている。この結果、官庁ばかりか、医療や教育もコスト引き下げ努力をしなくなった。民間の一般企業でさえも、コスト引き下げは5番目か10番目の目標に過ぎなかった。コストをかけてもすべて価格(売値)に転嫁できるのなら、苦労してコスト引き下げなどする必要はない。むしろ業界ぐるみでコストを吊り上げ、官僚と結託して価格に転嫁すれば業界全員の幸せである。政府機関の最大の特徴は、自由競争の場に曝されことがない点にある。これだけは、古代の王朝も中世封建国家も近代工業社会の政府も共通に持っている特性である。これゆえに、費用対効用という視点は失われた。官僚機構はやりたいことを舌先3寸でさも重大そうに見せ、そのための費用を財政当局から掴み取る。

インフレは経済問題だが、デフレは社会問題だ。インフレの苦しみは、過去の蓄えが目減りする形で広く大多数の人々に降りかかる。デフレの痛みは倒産や失業に陥る少数者に集中する。倒産も失業も心配のない公務員は、物価の値下がりと売り込みサービスの向上で、かえって楽しい満足が得られたりする。徳川幕府八代将軍吉宗(在位1716〜45年)以来、世の中を不況にした為政者の評判が良いのは、当時の武士、今なら公務員が褒めたたえるからだ。

起業に成功するには、好きな道が時流に乗る「天の時」と、目指した分野に需要が集まる「地の利」、それに良き理解者・協力者が現れる「人の和」が必要だ。歴史の上でも今日の実業でも、世に知られるほどの人はみな、少なくともある時期はこの3つに恵まれた。だがその背景には、1つのひらめきを好運が来るまで保ち続けた憤りと、実業化の志があったことを見逃してはならない。

組織には、共同体と機能体がある。本来、この2つは構造も機能も目的も違う。従って、組織の管理運営に当っては、この区別を明確に意識している必要がある。共同体とは、家族、地域社会、あるいは趣味の会など、構成員の満足追究を目的とした組織である。従って、構成員それぞれの組織に属する目的を満たすことが重要である。これに対して、機能体組織は、外的な目的を達成するための組織である。ここでは、組織内部の構成員の満足や親交は手段であり、本来の目的は利潤の追求や戦争での勝利、1つのプロジェクトの完成など、組織外の目的を達成することである。規模が大きく資産が豊かで、権限も結束も強い「堂々たる組織」が、死に至る病は3つしかない。

  1. 機能体組織の共同体化
  2. 環境への過剰適応
  3. 成功体験への埋没

日本の大組織は今、官民の別なく、この3つに取りつかれている。組織が固定化すると、従業員は職場での居心地の良さを追究する。そのために、権限を増やし、手続きをややこしくし、抜擢人事を排して年功序列に徹する。情報は内部に秘匿され、外部の監査や評価を避けようとする。つまり、組織を作った目的よりも、従業員の居心地の良さを求める。いわゆる機能体組織の共同体化が始まる。組織はまた、自らの活動する社会環境に合わせて体質と気質を形成する。だが、ある時ある場の環境に適合し過ぎると、環境変化に対応できなくなる。環境への過剰適応だ。組織はまた、一度成功したやり方を繰り返す。規格大量生産を徹底する合理化で成功した日本の製造業は、ただただそれを繰り返し、多様化や情報化に立ち遅れた。成功体験への埋没もまた、死に至る病である。

改革とは、全体の仕組みを改めることで、個々の仕方を変えることではない。1つの「仕組み」が長く続いていれば、それを前提とした業界・業種が確立し、それに多くの従業者や関連産業がつながっている。つまり「利害関係者」が数多くできている。当然、彼等はその既得権にしがみつき、あらゆる変革に反対する。それが「現場の声」となって既成の常識と結合し、善意を装った利権擁護勢力を形成するから面倒だ。

先見性、決断力、迅速な行動、この3つがこれからの企業経営者や管理者にとって最も重要な要件となる。こうした能力を古来、日本では「商人的才覚」と呼んだ。これからの知価社会は、商人的才覚が重要な役割を果たす時代なのだ。未来の企業価値を測るのは、理想・構想・独創の3想である。これを明確に示し、それに賛同する従業員を集め得た企業は、経営においても大いに有利になる。「知恵」というものは、過去の知識と経験の蓄積によって生まれ、教育と情報伝達の発達によって普及し、個人と集団の感覚と思弁によって新しく進化する。

これからは「何を作るか」「何を売るか」という“WHAT”が大切になってくる。このことは、企業の組織と行動原理にも変更を強いるだろう。ハウツーの時代には、与えられた商品やサービスの概念を専門分野別に細分化して、各分野ごとに最高に処理すればよかった。ところが、ホワットは細分化された専門家には生み出せない。商品やサービスの概念を形成するのは、全体を創造することであって、部分からの発想ではない。

日本の組織では、それぞれの部門担当者の意向を無視した全体調整は、ほとんど不可能に近い。日本の全体を動かすのはトップの意向ではなく、共通の情報環境が生む「空気」、つまり支配的な集団が作り出す雰囲気である。その意味においては、日本は古くから「世論民主主義」の国であった。世の風潮を大切にする日本は古来、政治行政の場にも「世論」が強く影響する国である。

情報の豊かさというのは、多源さと多様さのことだ。ハードウェアであれば、同じ形の自動車が1台よりも2台の方が豊かだが、情報に関する限り、同じ情報は1回聞いても10回聞いても同じである。情報の豊かさとは、どれだけ多くのニュースソースから、どれだけ多くの種類の情報を得るかという多源性と多様性にある。

動物の肉体的特徴は遺伝子によって決まる。動物の一種である人間も、例外ではない。だが、人間の性格や気質、習慣、発想などは生まれ育った社会条件や家庭環境によって変わる。時にはそれが体質や風貌にも影響、その人体の本質を形成する。一部の学者はこれを「後天的遺伝子」などと呼んでいる。広い意味での教育とは、この「後天的遺伝子」をインプットする作業全体を指すといってよいだろう。これからの時代、「我流」を軽視してはならない。「我流」こそ、個性と独創性の成果なのだ。

日本人の社会では、真実や論理的整合性を求めるよりも、その場の「空気」を掴むことが大切であり、世の風潮に合わせて生きることが有利であり利巧でもある。日本には全国民が揃ってただ1つの方向に邁進するような例が史上に多いのは、このためであろう。明治初期の開国、西洋化熱の時もそうだったし、昭和初期に太平洋戦争に向かって突進した時もそうだった。戦後の経済成長礼賛時代にも、1970年代の公害防止・福祉拡充運動にもそれが見られる。後になれば「実は私は反対だった」と言う人が沢山出てくるが、その時点ではどんな高位の人も止められないような「空気」が世の中を蔽ってしまうのである。

日本の官僚機構は、あらゆる局面で供給者側を保護する。例えば、雇用(労働力の売買)においては、勤労者が供給者であり、企業が需要(消費)者だから、政府官僚は勤労者側に立ち、解雇や賃下げには厳しい監視を怠らない。同様に、流通業者よりもメーカーの側を、道路を利用する運輪業者よりも道路を建設する建設会社の方を重視する。戦後の官僚機構は、それぞれが供給者を所管する組織原理で作られている。

「時代が変わった」とは、これまでの仕方や仕組みが変わるのはもちろん、正義の基準も価値の尺度も変わった、ということだ。これまでの正義と正当は時代遅れとなり、世の中の改革発展を阻害する要因になったのである。

以上が本書の概要である。ここまで読んだ方にはお分かりいただいたと思うが、ここに集めた短文は、1980年ごろから堺屋太一氏が書いた著書から抽出したものを、著者自身が多少修正を加えたものである。この短文を読み返してみると、人間としての正しい見方、考え方のヒントになるし、自分自身が今まで気が付かなかったことにハッと気付かせてくれたりする文章が多い。自分の生き方、考え方と比較してみて、考え直す点もあると思う。そんなヒントになるのではないか。


北原 秀猛

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