アメリカ・ボストンにあるハーバード・ビジネススクール。2004年4月、セブン−イレブン・ジャパン会長の鈴木敏文氏は、教室を埋め尽くす学生たちを前にして特別講義を行っていた。「消費は経済学ではなく心理学でなければならない」、「買い手市場の時代の最大の競争相手は変化する顧客のニーズに他ならない」。講義が終わると場内は総立ちになり、割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
鈴木流経営学のどこが卓越しているのか。その醍醐味は、世間に流布する数多くの「本当のようなウソ」を見抜き、我々の気付かない顧客や市場の「真実」を掴むところにある。鈴木氏は今の時代に重要なのは「知的指数的な優秀さ」ではなく、「どういう考え方で仕事をするかだ」と次のように話す。
「歴史のある企業は人・もの・金の経営の3要素がすべて揃っていて、本来なら経営がおかしくなるはずがないのに、歴史のある企業ほどあまりうまくいっていません。人・もの・金が揃うと、その時点から企業は衰退期に入るのではないかと思われるほどです。経営の3要素が揃うと企業は逆に組織の内部ばかりに目がいくようになり、市場の変化に取り残されるようになるのでしょう。その間にパッと出てきて、どんどん伸びていくのは名もない小さな企業です。そういう企業は金もなければ、財もなく、売るものも1つぐらいしかない。あるのは人材だけです。セブン−イレブンも創業当時は、お金もなく、ものもなく、集まった人材もみんな素人同然でした。だからこそ、自分達で知恵を出し、挑戦しなければなりませんでした。30年経っても、社員に求めるものは何も変わっていません。いわゆる、知能指数的な優秀さでいったら、よその会社の方がたくさん優れた人がいるでしょう。それよりも重要なのは、一人ひとりがどういう考え方で仕事をするか。仕事の取り組み方です。その方向付けをしっかり行う。それが経営者の役割です」。
本書は、鈴木氏が日頃語る「仕事の取り組み方」をさまざまな角度から紹介しようとするものだ。第1章:「買ってもらえない時代」にいかに買ってもらうか、第2章:「鵜呑み」にせずにいかに真の情報力をつけるか、第3章:セブン−イレブンの強さを支える「対話力」の極意を学ぶ、第4章「無」から「有」を生む組織はこうしてつくる、第5章:鈴木敏文直伝「迷ったときはこう決断しろ!」、の5章構成になっている。
鈴木氏はなぜ、迷わず「脱常識」の経営に邁進することができたのか。それは、市場に蔓延する「本当のようなウソ」を見抜き、顧客、市場、経営、組織運営…等々、数々の「真実」を掴んできたからに他ならない。「経費を単に減らすことは決して合理化ではない」、「経費を削減したとして利益が増えたように見えるのは縮小均衡にすぎない」、と考えるのが鈴木流だ。合理化かどうかの判断は利益と経費との関係で決まるものであり、経費をただ減らすより以前に、「経費に対して利益を最大化にすることこそが合理化ではないか」と鈴木氏は考えるのだ。セブン−イレブンには中長期計画は存在しない。ちょうど創業30年目に1万店を突破したが、「何年後までに1万店に増やす」といった目標を掲げたことは一度もなかった。あるのは1年単位の計画だけだ。「経営とは決して数字合わせであってはならない」と鈴木氏は考えるのだ。
顧客満足度が重視される今の時代には、「顧客のために」という意識こそが求められていると思われがちだが、「これには“本当のようなウソ”がある」と鈴木氏は言う。「私達が“顧客のために”と考える時にはたいてい、自分の経験をもとに“お客とはこういうものだ”“こうあるべきだ”という決めつけをしています。だから、やってみてうまくいかないと、“こんなに努力しているのにはお客はわかってくれない”と途端に顧客を責め始める。これは努力の押し売りにすぎません。あるいは、“顧客のために”やっていると言いながら、そこには売り手側の都合が無意識のうちに入っていて、実態はその押しつけになっていたりする。今の時代に本当に必要なのは、“顧客のために”ではなく “顧客の立場で”考えることです。“顧客のために”は自分の経験が前提になるのに対して、“顧客の立場で”考える時は、自分の経験をいったん否定しなければなりません。」
「“顧客の立場で”考えて、顧客にとって都合が良く、便利だったり、快適だったりすることは、たいてい売り手にとって都合の悪いことが多い。しかし、それを実行できる店や企業が顧客の支持を得ることができるのです。大切なのは、発想の仕方を変えることです。“お客は素人、自分たちは専門家”と考えて、これまで通りのやり方を続けていたら、とても顧客のニーズに応えられません。…変化に対応できない人は、変化を見ようとしないわけでも、見ることができないわけでもありません。見ようとしても変化が見えないのです。過去の経験が作り出したフィルターがいつも目に掛かっていて、フィルターを通すとマーケットの変化が消えてしまうのです」。人間はややもすると、思考や感覚にフィルターが掛かりやすい。それを日々払拭していかないと、変化に置き去りにされる。
「ものまねをする経営としない経営、どちらが楽か。ものまねをする方が楽のように見えますが、これも“本当のようなウソ”で、ものまねは進む道が制約され、やがて価格競争に巻き込まれます。自分で勝手に制約を作って苦しむのです。一方、ものまねをしない経営はいかに新しいものを生み出せるかが勝負で、一見大変そうに見えますが、全方位に広角度で自由に考えられるので、むしろ楽であるという発想に切り替えるべきです。…顧客のロイヤリティは築くのは難しく、崩すのは簡単です。大リーガーのイチロー選手でも、打率が2割ぐらいに下がったら人気は一気に落ち込むでしょう。イチロー人気が衰えないのは、ファンの期待が増せば増すほど、より高いレベルを目指して期待に応えようとするイチローの姿にファンが共感するからです」。
変化の時代には、「明日の顧客」が求めるものは「今日の顧客」が求めたものとは異なる。明日の顧客が求めるものを提供できなければ、機会ロスが生じる。機会ロスとは、その商品が顧客の来店時にあったなら売れたはずなのに、なかったために生じる損失だ。これを徹底して最小化していかなければ、単に収益上の損失にとどまらず、一度得た顧客のロイヤリティを失うことになりかねない。
コンビニの顧客満足度は6つの要素で構成され、それぞれの重要度順に並べると、
- 店員:27%
- イメージ:19%
- 弁当・惣菜類の品揃え・充実度:17%
- アクセス性:8%
- 各種商品・サービスの品揃え・充実度:7%
となり、セブン−イレブンは6つの要素のうち5つにおいて、評価がトップになっている。
鈴木氏にとって、情報とはいかなるものなのだろうか。「私は経済学者でも何でもない。誰か偉い人や学者がどう言おうが私には関係ない。IYグループに来店される1日1200万人の顧客のデータを見ながら、消費者の心理が今どんな状態にあるか感じ取って、皮膚感覚で言っているだけです」。「部下とは上司に対し常に自己正当化を図る存在である。…教育とは部下に気づきを与えることで、それには上司が自分で答えを持っていなければならない。上司が仕方がないと言ったら部下は絶対成長しません」。
商品のライフサイクルが短くなったために情報の寿命も短くなった面と、情報社会の進展により商品ライフサイクルが短くなった面の両面があり、社会の変化が速くなればなるほど相互に影響し合う度合いは高まっているという。「例えば、セブン−イレブンの店舗のある町で地元高校の野球部が甲子園で優勝したとします。急遽、優勝を記念して、弁当やおにぎり類の50円引きセールを行うことになった。従来だったら、チラシを流すとか何かで宣伝する必要があり、そうしないと、たまたま店に顧客以外は気づいてくれませんでした。ところが、今は来店してセールを知った若い人たちが携帯電話でどんどん情報を流すので、こちら側がさほど告知や宣伝をしなくても、あっという間に広まってお客が集まり、商品が売れます」。
鈴木氏はマクロの動きを捉える鳥瞰図的な視野を持つ一方で、ミクロの動きも検証する虫瞰図的な視点も併せ持つ。こうしたマクロとミクロの複眼的思考は、鈴木流経営学の随所で見られる。商圏の特徴や地域の特性を踏まえて顧客層の特徴を大きく掴みながら、その一方では販売データの動きを細かく追うなど、ミクロの視点を徹底することで予想もしなかった顧客の購買行動を見つけ、新しい販売チャンスに結びつけたりする。
「アメリカではOFCがオーナーに対して、マニュアルを見ながら、“ここはいい”“これはダメだ”と一つひとつチェックしていました。それを見て、私は彼らに言いました。これでは“ポリスマン”ではないかと。OFCはティーチャーでなければいけない。同じティーチャーでも、一方的に押しつけるのではなくて、“対話をともなった慕われるティーチャー”になるべきだと。その後、アメリカのセブン−イレブンは立ち直り、3年ほどで単年度黒字に転換し、再上場も果たしました。アメリカの学者は“再建できたのは奇跡だ”と言いましたが、奇跡でも何でもありません。あたり前のことを当たり前にやっただけです」。「今の顧客は何を買っていいか迷っていると言われますが、迷いというよりは確認したいという意識が非常に強いのでしょう。“本当にこれはおいしいの”“これは安いけれど本当に大丈夫なの”と顧客は確認したい。物不足の売り手市場の時代には、売り手側の都合で作れば、一方通行でも顧客は全部買ってくれましたが、今は自分のニーズを満たしていないと購買行動に移りません。顧客はその商品が本当に自分のニーズを満たしてくれているのかどうか確認したい。売り手側が自分達、買い手側の求める価値を理解し、きちんと情報を得ているのか確認したい。売り手から買い手への一方通行ではなく、売り手と買い手双方が価値や情報を共有していかないと、あらゆる事業が成り立たなくなっているのです」。
最近では、大きな話題としてアイワイバンク銀行(IY)の設立があった。「素人が始めてもうまくいくはずない」「絶対失敗する」「賭けにもならない」「万が一うまくいったら銀座を逆立ちして歩く」…等々、冷ややかな声が経済界やマスコミに溢れた。否定論が渦巻く中で、鈴木氏は前代未聞の流通業による自前の銀行設立を決断した。ジャパンネット銀行、ソニー銀行、イーバンク銀行など新設4銀行が設立されたが、「3年以内の黒字化」の金融庁条件を達成したのはIYバンクだけである。
「セブン−イレブンは2004年4月に北京に初出店し、中国に進出しました。この時も最初から日本と同じシステムを入れるようなことは絶対してはならないと命じて、伝票も手書きから始めるようにしました。そこから自分達のノウハウを積み重ねていくことが大切なのです。
以上が本書の概要である。最後のページに鈴木敏文氏が語る“75の真実”が添付されている。例えば、「仮説づくりは“どうしてなのか”と疑問を発するところから始まる」、「顧客のために」と「顧客の立場」とでは意味がまったく異なる。「欲望に際限はなく、そこに人間の本質がある」などである。はじめに鈴木氏が述べているが、今の時代に重要なのは「知能指数的な優秀さ」ではなく、「どういう考え方で仕事をするかだ」とあるが、全くその通りである。セブン−イレブンを他のコンビニエンス・ストアーと比較すると、1店舗当りの平均日販は65万円であり、2位のローソンの48万円、3位ファミリーマートの46万円を大きく引き離している。売上高でも2位+3位<1位となっている。冒頭にあるように、「消費は経済学ではなく心理学で考えなければならない」と語っているように、自分の哲学に基づいて、経営を推し進めてきたのがセブン−イレブンである。鈴木氏のものの見方、考え方は流通業のみならず、あらゆる経営にヒントとなるだろう。
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